本多 秀玄(ほんだ ひではる)は、戦国時代から安土桃山時代武将徳川家康の武将。徳川氏重臣本多氏の一族で、本多重次は伯父にあたる。

 
本多 秀玄
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 永禄9年(1566年)?
死没 元和3年4月21日1617年5月25日
改名 九蔵、九右衛門
戒名 道可
墓所 大蓮寺(埼玉県川越市
主君 徳川家康
氏族 本多氏
父母 本多重玄
本多重次
玄盛吉里、玄次、玄重成於
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生涯

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重玄は徳川家康に仕え、三河寺部城攻撃の際に戦死した。当時秀玄はまだ幼かったため、伯父重次によって扶育され、後にその娘を娶った。その後、松平信康付きの小姓となる。天正7年(1579年)信康が自害した後は重次の麾下となり岡崎城番となる。天正10年(1582年甲州征伐では駿河久能城攻撃に加わり、落ち延びた城主今福虎孝を中根新十郎とともに討ち取った。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは斥候となり、遭遇した敵を討つ武功を立てている。天正18年(1590年)徳川氏の関東移封後は武蔵河越に150石を与えられ、本多正信の配下となった。その後は河越に住み、関ヶ原の戦いの際には、上田城の戦いに嫡子玄盛が従軍している。戦後は加増されて上総山野辺に200石を与えられている。玄盛は慶長15年(1610年)に早世したため、秀玄没後の家督は嫡孫玄正が幼くして継承した。

参考文献

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  • 「寛政重修諸家譜」巻第689