木部貞朝
木部 貞朝(きべ さだとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正10年(1582年) |
改名 | 高成 |
別名 | 宮内少輔 |
主君 | 滝川一益 |
氏族 | 木部氏 |
父母 | 父:木部範虎 |
兄弟 | 高成、直高(小次郎) |
略歴
編集木部範虎の嫡男として誕生。父・範虎は箕輪城主・長野業正の娘婿であったが、甲斐武田氏に降った後、天正10年(1582年)の天目山の戦いで討死したため、貞朝が家督を継いだ。
貞朝は武田氏を滅ぼした滝川一益に従うが、滝川と小田原北条氏との合戦「神流川の戦い」において討死した[2]、とされているが、同合戦後は小田原北条氏に帰属した。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、北条氏は領地を失い、当主の北条氏直は高野山に蟄居させられた。これに貞朝は随行した。氏直は早々に許されることとなり、新たに領地も与えられる予定であったが急な病により死去した。貞朝は追腹を切ったと伝わるが、京で病死したとも伝わる。
木部氏の家督は弟の直高が継いだ。北条氏の後の関東を治めることとなったのは徳川家康だが、直高の子の直時(直方)が徳川幕府第二代将軍となった徳川秀忠に仕え[3]、子孫は江戸幕府旗本となった。