朝日殿
戦国時代・安土桃山時代の女性。杉原家利の娘。
朝日殿(あさひどの)は、戦国時代・安土桃山時代の女性。朝日局(あさひのつぼね)とも云う。豊臣秀吉の正室・北政所の生母。一説に名はおこひ[3]。
あさひどの 朝日殿 | |
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松屋妙貞大姉像 | |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長3年8月11日(1598年9月11日) |
別名 | 朝日局 |
配偶者 | 杉原定利 |
子供 | おね、木下家定、くま、やや[1] |
親 | 杉原家利、静室院 |
親戚 | 杉原家次、杉原源七郎[2]、七曲殿 |
略歴
編集朝日殿(朝日局)という名は、出身の尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)から来ている[4]。
父は杉原家利(高安院)、母は静室院。杉原家次と源七郎[2]は兄。七曲殿(浅野又右衛門継室)は、諸系図により姉とも妹ともされ、順序は不明[5]。
朝日殿は婿養子の杉原定利[6]の妻となり、おね(寧、高台院、秀吉正室)、木下家定、くま(長慶院、三折全友室)、やや[1](長生院、浅野長政室)をもうけた。
浅野長勝と七曲殿に子がなかったため、おねとやや[1]の2人を養女として出したが、永禄4年(1561年)、おねは秀吉と結婚してしまった。
『平姓杉原氏御系図附言』によれば、朝日殿は、周囲の反対にもかかわらず密かに結ばれた野合であるとして怒り、秀吉との婚姻を生涯認めることはなかったという[7]。『藩翰譜』によれば、おねは前田利家に嫁ぐ予定であったが入婿のように長屋に住み込んだ秀吉の妻となったとし、『杉原氏系図』によれば朝日殿と七曲殿の反対によって結婚を阻まれた秀吉が長勝に頼み込んでおねを養女としてもらって浅野家から嫁ぐという形にしたのだという[8]。
慶長3年(1598年)8月11日、死去。秀吉の死の7日前であった。
戒名は康徳寺殿松屋妙貞大姉。高台寺(康徳寺[9]の後身)内の旭雲院に葬られた。後年、家定の三男である日出藩主・木下延俊(孫にあたる)によって、大分県速見郡日出町康徳山松屋寺にも墓が築かれ、供養のための肖像画は県の有形文化財となっている[10]。
演じた女優
編集脚注
編集- ^ a b c 浅野長勝の実子で、生母も朝日殿ではなく、勝福院(樋口美濃守の娘)であるとする説もある。
- ^ a b 杉原長氏の父。
- ^ 境淳伍「北政所と木下家」『歴史研究』1999年5月号。
- ^ 岡田啓 (文園) , 野口道直 (梅居) 編『国立国会図書館デジタルコレクション 尾張名所図会. 後編巻3 春日井郡』片野東四郎、1880年 。
- ^ 婿を取ったことから長女とするものが多いが、『尾張群書系図部集』では妹となっている。
- ^ もとは林姓。杉原助左衛門、後に七郎左衛門。入道道松。
- ^ 田端 2007, pp.7-8
- ^ 浅野史蹟顕彰会 端 1917, p.89
- ^ 康徳寺は北政所が生母の菩提を弔うために建立した寺院。後にこれが秀吉を弔うための高台寺となった。
- ^ 宮川照子、『神と仏の里宇佐・国東: 昭和60年代の六郷満山文化を訪ねて』 p.214
参考文献
編集- 田端泰子『北政所おね : 大坂の事は、ことの葉もなし』ミネルヴァ書房、2007年。ISBN 9784623049547。
- 浅野史蹟顕彰会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 浅野荘と浅野氏』浅野史蹟顕彰会、1917年 。