望月 教治(もちづき きょうじ、1935年[1][2]10月11日[3] - )は、静岡県出身の元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。

望月 教治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県
生年月日 (1935-10-11) 1935年10月11日(89歳)
身長
体重
167 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴・人物

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静岡商業高等学校では2年生の時、一番打者、遊撃手として、田所善治郎阿井利治のバッテリーを擁し、1952年春の選抜に出場。準決勝で木村保をエースとする八尾高を破る。決勝では日野美澄のいた鳴門高を降し、田所が全試合を完封する快挙で選抜初優勝を飾る[4][1][5]。同年夏は山静大会準決勝でエース矢頭高雄を擁する都留高に敗退。他のチームメートに中堅手横山昌弘らがいた。翌1953年は横山俊雄(のち静岡商監督)、阿井のバッテリーを擁し夏の甲子園に出場。準々決勝で明治高に敗れた[6]。この時の控え選手に松浦三千男滝英男がいた。

専修大学に進学。攻走守三拍子揃った遊撃手として活躍し、東都大学野球リーグでは3回の優勝を経験。1954年全日本大学野球選手権では、準決勝で秋山登土井淳らのいた明大に惜敗。当時のリーグ通算最多となる102安打を記録し、入学から1957年春季リーグまで全試合出場[7][8]。大学の1年上に森永勝也がいる。

大学卒業後は社会人野球熊谷組に入社[7]、ここでも一番打者、遊撃手として活躍。1958年都市対抗では、島津四郎らの好投もあって準決勝に進むが、江藤慎一を打の主軸とする日鉄二瀬に敗退した[9]1960年都市対抗では二番打者、三塁手に回る。松下電器との決勝に進み、島津が延長10回裏に松浦三千男鐘化カネカロンから補強)から代打サヨナラ適時打を放ち優勝[9]。この時のチームメイトに古田昌幸高林恒夫らがいる。直後の全日本チームによるハワイ遠征にも参加した。1961年産業対抗も決勝で丸善石油を再試合の末に降し優勝した。

1964年から母校の専修大学の監督を務め、翌年の大学選手権でエース・芝池博明の活躍もあってチームを初優勝に導いた[7]

以後は地元で社会人野球の浜田産業、金指造船所ヤマハ発動機、母校の静岡商業高等学校で監督を務め、高校の監督としては1975年の選抜大石大二郎らを擁してベスト8に進出。1984年から再び専修大学の監督を務め、1989年春にはエース・岡林洋一を擁してチームを優勝に導いた[10]。その後は二部リーグ降格も味わうが、小林幹英黒田博樹の活躍で一部復帰を果たす。退任後は興誠高校の監督としてチーム初の甲子園出場に導いた。子息も高校、大学と同じ経歴を歩み、静岡の公立校で紅林弘太郎を育てるなど指導者となっている。

脚注

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  1. ^ a b 名将・望月教治氏を訪ねる”. 静岡野球スカウティングレポート (2012年1月25日). 2022年5月9日閲覧。
  2. ^ 栗山司 (2020年2月12日). “「松井5敬遠」の河野和洋さんが帝京平成大の監督に「やるからには5年で日本一」”. 4years. #学生スポーツ. https://4years.asahi.com/article/13109982 2022年5月9日閲覧。 
  3. ^ 神宮球場ガイドブック1990春号 ベースボールマガジン社編
  4. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  5. ^ 静岡商 - 時空甲子園”. 時事ドットコム. 2022年5月9日閲覧。
  6. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  7. ^ a b c 1965年 6月25日 朝日新聞 朝刊 p5
  8. ^ 東都大学野球連盟[過去の記録-打者]
  9. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  10. ^ 1984年 1月26日 朝日新聞 夕刊 p3

関連項目

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