普門寺 (恵那市)

岐阜県恵那市にある曹洞宗の寺院

普門寺(ふもんじ)は、岐阜県恵那市山岡町下手向にある曹洞宗寺院。山号は龍雲山。恵那三十三観音霊場二十番札所。

普門寺
所在地 岐阜県恵那市山岡町下手向1636
位置 北緯35度20分50.9秒 東経137度22分29.6秒 / 北緯35.347472度 東経137.374889度 / 35.347472; 137.374889座標: 北緯35度20分50.9秒 東経137度22分29.6秒 / 北緯35.347472度 東経137.374889度 / 35.347472; 137.374889
山号 龍雲山
宗派 曹洞宗
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 慶長10年(1605年)以前
開山 田翁奭公
中興年 宝永4年(1707年
中興 石室善玖(全玖)
札所等 恵那三十三観音霊場二十番
文化財 恵那市指定:ヒトツバタゴ
法人番号 8200005009488 ウィキデータを編集
普門寺の位置(岐阜県内)
普門寺
普門寺
普門寺 (岐阜県)
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歴史

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寺伝によれば、開山は田翁奭公首座で、慶長10年(1605年)に没したと伝わるので、開創の年は、それ以前と考えられる。

当時は小規模な庵か辻堂程度の規模であったと思われる。

田翁奭公の後を継いだ快翁慶誾首座は、承応3年(1654年)に没した。

禅岩玄悦は、久保原村の浅野家の次男で、在任中に客殿(本殿)や山門を建立して伽藍が整ったが、田代村の留守ヶ洞へ隠居して、元禄10年(1697年)に没した。

禅岩玄悦の隠居後は、一斧鈯宣・和光拈調と続いたが、和光拈調が、いづこかへ去ったため、その後は無住の状態が続いた。

宝永4年(1707年)、馬場山田村盛久寺六世快信祖慶の法嗣、大牛光[1]は、この様子を悲しんで入山し中興した。

大牛光は、既に没していたが尊崇していた盛久寺二世の石室善玖(全玖)を開山とし、盛久寺七世の雲原岩亮を一世として、自らは二世と称して諸堂を修繕し大小の鐘を新鋳し、寺は法地に格上して、名実ともに中興の業を成し遂げた。

しかし開基については別説もある。

盛久寺の寺史「太源一滴水」には、寛永3年(1626年)に石室善玖(全玖)が普門寺を創立し、自ら開山と称し、寺務は普門寺の二世に執らせたと言うものである。

宝暦7年(1757年)、四世の霊堂栄(国栄和尚)が、山門を再建。寺子の教育にあたった。

明和3年(1766年)3月に、霊堂栄(国栄和尚)は東原薬師堂へ隠棲し、鰲蕚巴山が普門寺の五世として入山したものの、同年8月には三河の龍岳院に移ったため、天堂階(卍階和尚)が六世となり普門寺に入山した。

天堂階(卍階和尚)は、明和4年(1767年)衆寮を建立。安永2年(1773年)庫裡を再建。その後、土蔵・長屋・裏門などを造立して面目を一新した。

天明8年(1788年)、大観舟(如水和尚)が普門寺に入門し七世となり、寛政6年(1794年)、春本堂を再建した。

「釜屋年代記」によれば、文化2年(1805年)に建立講を始め、文化3年(1806年)完成とある。

文政5年(1822年)、孤岸舟(喚舟和尚)が普門寺に入山し九世となった。文政8年(1825年)には庫裡を再建。天保3年(1832年)に宝蔵を建立。

天保7年(1836年)、孤岸舟(喚舟和尚)が没し、湖海舟が普門寺に入山し十世となった。寺子の教育に力を入れた。墓石は寺子の寄進である。

境内には弓道場が設けられているほか、恵那市の天然記念物となっているヒトツバタゴの老樹がある。

脚注

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  1. ^ 山田村の豪農の後藤彦蔵の次男

参考文献

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  • 『山岡町史 通史編』 第九章 宗教 第三節 禅宗寺院 普門寺 p636~p638 山岡町誌編纂委員会 1989年   
  • 『恵那郡史』 第六篇 戦国時代 第二十六章 禅宗の興隆 【曹洞宗】  p200~p202 恵那郡教育会 1926年
  • 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年