早川のビランジュ
早川のビランジュ(はやかわのビランジュ)は、神奈川県小田原市早川にあるバクチノキの大木である[1](ビランジュとはバクチノキの別名[2])。1924年(大正13年)12月9日に国の天然記念物に指定された[3]。かながわ名木100選にも選出されている[4]。
木の特徴
編集樹高は約20メートル、枝張り東西17メートル、南北14メートル[5]。急斜面に生育しており、南側(高地側)は北側(低地側)より1メートルほど高く、土に覆われているため、周辺長は正確に測れないが、南側の地際を基準とすると根本周囲は6メートルになる[5]。
推定樹齢は、資料によって違いがあるがおおむね250年から350年と推定されている[注釈 1]。
バクチノキの樹皮は灰褐色で剥がれやすく、剥がれた跡が赤褐色または紅黄色になる。これを博打に負けて丸裸にされた状態に例えてバクチノキと呼ばれる[6]。本樹の幹には縦に筋状に模様が入り、くぼみ部分はひときわ鮮やかな赤褐色であり[7]、ところどころ瘤状に隆起している[8]。2007年(平成19年)の調査では、3ヶ所以上の大枝が欠損していた[1]。同じ株から伸びている若い幹には灰褐色の樹皮も残っていて鹿の子模様になっている[9]。根本は急斜面の岩場だが、枝には葉がよく茂り、前方に深く幕のように垂れ下がって、この巨木一本で森のように見える[7]。本樹の赤褐色の幹は、その中に入らないと見えない[7]。
1996年(平成8年)の台風で主幹の上部が裂けてしまったが、樹勢は今なお旺盛である[7]。秋に白い花をつけ、翌年には緑色の果実になり、五月には黒紫色に熟す[7]。この樹の周辺の岩場にも幹周40センチメートルほどのバクチノキの若木があり、またこの樹の根本付近や下の畑にもバクチノキの苗木が芽を伸ばしている[7]。本樹の南側根本にはベッコウタケが生えている[1]。
なお、本樹の生育している場所の小字名は「飛乱地(びらんち)」と呼ばれているが、この名は、本樹木に由来するとされる[10]。後北条氏の時代にすでにこの地名が生じていたという話もある[11]。
環境
編集豊臣秀吉が小田原攻めの際に築いた石垣山一夜城で有名な石垣山北麓の樹林の急斜面に、箱根ターンパイクの陸橋と向かい合わせの位置に立っている[12]。現地は、箱根板橋駅から南方1キロメートルほど[6]、早川駅からは北西1キロメートルほど[8]の、ミカン畑を上り詰めた急斜面で[10][9]、上からの切り立った岩場が終わっている[7]、急な北向きの崖地である[8]。
本樹が生えている場所は、表土が薄く、安山岩がところどころに露出している[9]、石や土が混じった[7]30度から45度の急傾斜地であり[1]、下側からでは幹に触れることも困難である[7]。横の竹やぶを回って上側に上れば触れることが出来る[7]。また、現地は日照条件もやや不良である[1]。水分条件のよい場所であり、周囲にはフウトウカズラ、ホソバカナワラビ、イノデ、キチジョウソウなどが生息する[8]。
歴史
編集現在では資料によって異なるものの、樹齢はおおむね250 - 350年程度と推定されている[注釈 1]が、1924年(大正13年)に天然記念物指定調査当初は570年[13]から千数百年[11]とも言われ、後北条氏の時代に植えつけられたものとも言われていた[13]
当地を本樹に由来して「飛乱地」と称するくらい、古来から村人の目標になっている樹である[14]。「明日の平和を保証」するシンボルとして付近の農民に親しまれていた[15]。1961年(昭和36年)頃に早川のビランジュを訪問した本田正次は、「地元ではバクチノキでは通じぬがビランジュと言えば誰でも知っていて道を聞けば教えてくれる」と記している[16]。小田原‐箱根間を歩く旅人もこの樹を確認してこの付近を通ったという[17]。西国のさる大名が参勤交代で江戸に向かう途中、駕籠を止めさせ「自分は余命いくばくもないと思っていたが、再び見ることが出来た。この木も丈夫であったか」と感慨深げに見つめたという話もある[18]。
また、小田原藩主大久保忠真が、小田原に帰国したとき、真っ先にこのビランジュについて問うた、という逸話がある[19][17]。大久保忠真は、1810年(文化7年)に大阪城代、1815年(文化12年)には京都所司代となったが、1818年(文政元年)には38歳で老中に抜擢された[20]。そこで9年ぶりに小田原に戻ったとき、忠真を迎えた家老がゴマすりのつもりで「留守中は殿様と同様に領内をくまなく回って領民との対話を欠かさなかったので領内は安泰」と報告すると、忠真は上機嫌で「あのビランジュは無事か」と尋ねた[18][15]。しかし、ビランジュのことを知らなかった家老は「そのような寺は領内にございません」と答えた[18]ため、「あの名木を知らぬとは、城内にばかりいたのであろう」[18]と嘘の報告が露見し忠真の大目玉を食らった、という話である[15]。
本樹の生えている一帯の土地は、小田原城主大久保氏の領地であったが、明治維新後に、大久保氏の御用を勤めていた松岡家に払い下げられ[14]、私有地となったものである[21]。天然記念物指定当時は、当時の小田原町助役であった松岡彰吉の私有地であり、木も同氏の所有であった[14]。現在も松岡家の私有地である[1]。
牧野富太郎は、この樹が斜面の窪地にあって耕作の妨げになることがなかったため伐採されることもなく今日まで残ったのであろう、と述べている[22]。
以前から地元では珍樹木として知られていたが、史蹟天然紀念物保存会の三好学は、牧野富太郎よりこの樹のことを知らされ、実地調査を行った[21]。三好は1924年(大正13年)7月4日に、天然記念物としての指定樹として調査のため、現地を訪れたが、周囲には雑草や雑木が繁茂しており調査が困難だったため、後日再調査となった[13]。そして調査の結果、バクチノキは西日本の暖地には多く生息するが、東日本には少なく、特に本樹のように巨大なものは見たことがない、として天然記念物に指定することの必要性を認めた[21]。そして、1924年(大正13年)9月16日には正式に天然記念物としての保存が決定した[14]。
本樹は神奈川県下には数少ない国の天然記念物であり[6]、1957年(昭和32年)に勝福寺の大イチョウが県の天然記念物に指定されるまで、小田原市内に存在する天然記念物は、(国、県、市を問わず)この早川のビランジュが唯一のものであった[23][注釈 2]。
管理
編集木の周囲に柵などはなく、施肥や剪定、薬剤散布等も行われていない[1]。本樹は個人の所有であるが、国、県、市などから保全の助成があり、本樹周辺のタケの伐採が行われている[1]。
木の前には小田原市が設置した解説板が建てられている。
アクセス
編集- 所在地
- 交通
早川地区および周辺地域のバクチノキ
編集小田原はバクチノキの北限に近く、昔から本樹は比較的珍しいものとされる[27]。本樹が生息する小田原市早川地区には、小田原市内で確認されたバクチノキ10数本のうち半数近くが存在する[27]。早川にある海蔵寺には高さ16メートルのバクチノキがあり、太さや古さが早川のビランジュに次ぐものとして人目を引いている[28]。海蔵寺のビランジュは1981年(昭和56年)に小田原市の天然記念物に指定されている[29]。
2011年(平成23年)には、小田原市より北にある神奈川県大井町、および南足柄市でも寺社境内などでバクチノキが確認され、従来の北限説を覆すものとして、当該自治体の注目を集めている[30]。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b (『日本の天然記念物』, p. 519)では250年、(『かながわの名木100選』, p. 139)では300年、(『小田原の天然記念物』, p. 38)では350年。さらに、(『小田原の巨木』)では300年以上としている。
- ^ 2012年(平成24年)現在では、国、県、市を合わせて27点になっている[24]。
出典
編集* 新聞や雑誌の記事は、データベースから検索・閲覧した記事については、データベース名と閲覧日を記入。それ以外の新聞・雑誌記事は、当時の紙面や縮刷版(コピー版も含む)またはマイクロフィルムを直接参照したものである。
- ^ a b c d e f g h i かながわ名木100調査報告書 2007
- ^ a b “天然記念物 ・早川のビランジュ”. 指定文化財. 小田原市 (2017年3月31日). 2017年6月22日閲覧。
- ^ “史跡名勝天然記念物 ”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2017年6月22日閲覧。
- ^ 『かながわ名木100』(レポート)、日本樹木医会神奈川県支部, 財団法人日本造園修景協会神奈川県支部、2007年。2017年6月22日閲覧。
- ^ a b 小田原市教育委員会 (2001), p. 125
- ^ a b c d e 神奈川県教育庁文化財保護課 (1987), p. 139
- ^ a b c d e f g h i j 川村 (2007), pp. 38–41
- ^ a b c d 『日本の天然記念物』 (1995), p. 519
- ^ a b c 「樹齢探検 連載21 箱根観光の車を見下ろす「バクチの木」とは」『FOCUS』、新潮社、1992年10月16日、38-39頁。
- ^ a b 小林 (1985), p. 138
- ^ a b “美蘭樹の保存決定 正式通牒を待ちて保護法を講ずる”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社): p. 3. (1924年11月21日)
- ^ 堀江 (1970)
- ^ a b c “石垣山の飛亂樹 保存指定樹”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社): p. 3. (1924年7月4日)
- ^ a b c d “兪保存天然物と決定した美蘭樹 本邦中最古の老樹”. 横浜貿易新報 (横浜貿易新報社): p. 3. (1924年9月16日)
- ^ a b c “相模の動植物27 ビランジュ まさに"よらば大樹" 高さ40メートル、平和のシンボル”. 読売新聞 朝刊 神奈川 (読売新聞社): p. 14. (1967年9月12日) - ヨミダス歴史館にて2016年09月23日閲覧。
- ^ 上原, 他 (1966), pp. 64–68
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- ^ 国史大辞典編集委員会(編)、1980年「大久保忠真」『國史大辭典』2巻、吉川弘文館、544頁。
- ^ a b c 三好 (1928), pp. 17–19
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- ^ “指定文化財・天然記念物一覧表”. 指定文化財. 小田原市 (2012年3月9日). 2017年6月22日閲覧。
- ^ a b 『かながわの名木100選 樹木所在地一覧表 (PDF)』(レポート)〈「かながわ名木100選」調査・診断報告書〉、日本樹木医会神奈川県支部, 財団法人日本造園修景協会神奈川県支部、2007年。2017年6月22日閲覧。
- ^ 牧野和春 (1989), pp. 52–53
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- ^ “分布の北限覆る…?天然記念物「早川のビランジュ」/神奈川”. カナロコ. 神奈川新聞社 (2011年8月29日). 2017年6月22日閲覧。
参考文献
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- 川口 謙二『書かれない郷土史 武蔵・相模を中心とした民俗資料』錦正社、1960年。
- 川村 均『巨木力 大樹を愛したひとたち』リトル・ガリヴァー社、2007年。ISBN 4947683880。
- 神奈川県教育庁文化財保護課 編『かながわの名木100選』神奈川合同出版、1987年。
- 小林 義雄『花木の博物誌 I』青娥書房、1985年。ISBN 4-7906-0101-3。
- 出口 長男『文化相模の花や木』相模書房、1971年。
- 三好學「山形・愛媛・大分・山口・神奈川・埼玉・東京・徳島・富山・石川・愛知・兵庫・鳥取一府十二縣下に於ける植物」『天然紀念物調査報告 植物之部 第6輯』内務省、1928年、17-19頁 。2017年6月22日閲覧。
- 上原敬二、本田正次、三浦伊八郎『樹木三十六話』地球出版、1966年 。2021年6月10日閲覧。
- 『概況調査票 早川のビランジュ (PDF)』(レポート)〈「かながわ名木100選」調査・診断報告書〉、日本樹木医会神奈川県支部, 財団法人日本造園修景協会神奈川県支部、2007年。2017年6月22日閲覧。
- 『日本の天然記念物』講談社、1995年。ISBN 4061805894。
- 堀江 重次「県内の天然記念物(II)」『かながわの自然』第12巻、神奈川県自然保護協会、1970年11月、14-15頁。
- 牧野 和春『関東地区 巨樹・名木巡り』牧野出版、1989年。ISBN 4895000052。
- 牧野富太郎『植物分類研究 下』 6巻、誠文堂新光社〈牧野植物学全集〉、1936年 。
- ヨミダス歴史館, 読売新聞社
座標: 北緯35度14分31.6秒 東経139度8分14.4秒 / 北緯35.242111度 東経139.137333度