手島 鍬司(てしま くわじ、慶応3年9月27日1867年10月24日) - 1922年9月23日)は、日本政治家実業家衆議院議員を1期務めた。

手島 鍬司
てしま くわじ
生年月日 慶応3年9月27日
出生地 三河国岡崎城郭内
没年月日 (1922-09-23) 1922年9月23日(54歳没)
出身校 第三番小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校
所属政党立憲同志会→)
憲政会

選挙区 旧愛知3区(戦前)
当選回数 1回
在任期間 1920年5月10日 - 1922年9月23日

選挙区 額田郡選挙区
当選回数 1回
在任期間 1915年9月25日 - 1919年9月24日
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概要

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岡崎藩士の服部兵馬の2男として生まれた。出生地は三河国岡崎城郭内(明治初頭に岡崎康生町となる。現在の岡崎市[1]。明治維新後、服部家は家禄奉還のため武家屋敷を離れ戸崎村に移り、農業を営んだ[2]。第三番小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)卒業。1882年(明治15年)、八丁味噌早川商店(現・カクキュー)に入る。のち老番頭手島源市の婿養子となった。

多忙な業務のかたわら、剣道や漢学、語学を学び、読書は一日も欠かすことがなかったと言われている。1891年(明治24年)に支配人に抜擢され、その手腕を存分にふるった[3]1892年(明治25年)、いとこの小柳津要人の勧めにより手島は宮内省への味噌納入を開始[4]1901年(明治34年)12月28日、早川商店は宮内省御用達を拝命するに至った[5]

1904年(明治37年)11月、家督を相続した[6]

1906年(明治39年)5月1日、岡崎町が三島村乙見村の一部(大字稲熊、大字小呂)を編入した折、周囲の人々に推されて町会議員に初当選した。1908年(明治41年)、額田郡会議員に初当選。

1910年(明治43年)、岡崎電灯株式会社の取締役に就任[7]。実業界ではそのほか三河製粉社長、西尾鉄道監査役などを務めた[8]

1915年(大正4年)9月愛知県会議員選挙に立憲同志会から立候補し初当選した[9]

1917年(大正6年)4月20日に行われた第13回衆議院議員総選挙憲政会から立候補するも落選。同党は他に武富済早川龍介三浦逸平らも擁立したが全員落選した[10]

1920年(大正9年)5月10日に行われた第14回衆議院議員総選挙から岡崎市は初めて独立した選挙区(第3区)となった。手島は再び憲政会から立候補。立憲政友会から出た福岡精一を破り、岡崎市に基盤を持つ初の衆議院議員として初当選を果たした[11]

衆議院議員在職中の1922年(大正11年)9月23日、脳溢血により死去[12]。54歳没。

1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[13]

脚注

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  1. ^ 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日、8頁。 
  2. ^ 『岡崎の人物史』岡崎の人物史編集委員会、1979年1月5日、151-152頁。 
  3. ^ 『新編 岡崎市史 近代 4』新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日、809頁。 
  4. ^ 企業の長期存続と経営戦略に関する調査研究” (PDF). 企業活力研究所. 2018年3月31日閲覧。
  5. ^ カクキューの歴史|合資会社 八丁味噌
  6. ^ 内尾直二編 『人事興信録 第5版』 人事興信所、1918年。
  7. ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、250頁。 
  8. ^ 憲政資料編纂会編 『歴代閣僚と国会議員名鑑』 政治大学校出版部、1978年、622頁。
  9. ^ 『愛知県議会史 第四巻』愛知県議会、1962年3月30日、292頁。 
  10. ^ 『新編 岡崎市史 近代 4』新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日、813頁。 
  11. ^ 『愛知県議会史 第四巻』愛知県議会、1962年3月30日、350頁。 
  12. ^ 『おかざきしんぶん』第5号、1981年4月30日、2-3面、「八帖と岡崎経済界 早川勇治さん(80才)にお伺いしました」。
  13. ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、915頁。