徳川宗将
第7代和歌山藩主
徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)は、和歌山藩の第7代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保5年2月30日(1720年4月7日)[1] |
死没 | 明和2年2月25日(1765年4月14日) |
改名 | 直松、宗将 |
戒名 | 菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士 |
墓所 | 慶徳山長保寺 |
官位 | 従四位下・常陸介、従三位・右近衛権中将、参議、権中納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 紀伊和歌山藩主 |
氏族 | 紀伊徳川家 |
父母 | 父:徳川宗直、母:永隆院 |
兄弟 | 宗将、治貞、松平頼央、松平信有、富千代、内藤貞幹 |
妻 |
正室:伏見宮貞建親王の養女(今出川公詮の娘)・徳子 継室:一条兼香の娘・重子 |
子 | 直松、重倫、門之進、内藤学文、松平頼興(五男)、松平頼謙、松平忠功、三浦為脩、松平忠和、安藤道紀、阿部正由、千間姫(前田重教正室)、琴姫(池田重寛婚約者)、致姫(松平重富正室)、逸姫、従姫(徳川治行正室) |
生涯
編集享保5年(1720年)2月30日、先代藩主・徳川宗直の長男として江戸青山御殿にて生まれる。幼名は直松。宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだが、藩政に対しては消極的であった。仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃したと伝わる。
明和2年(1765年)2月25日、江戸赤坂の和歌山藩邸にて死去した。享年46(満45歳没)。長保寺に埋葬された。家督は次男の重倫が継いだ。
和歌山藩主としての治世は7年6か月であり、この間の江戸参府1回、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は6年であった[2]。
官歴
編集系譜
編集参考文献
編集- 367日誕生日大事典 日外アソシエーツ 2007年 ISBN 978-4816920677