前田重教
前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主・前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛保元年10月23日(1741年11月30日) |
死没 | 天明6年6月12日(1786年7月7日) |
改名 | 健次郎(幼名)→利篤→重基→重教 |
戒名 | 泰雲院殿仁彭寿大居士 |
官位 | 正四位下、左近衛権中将、加賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 加賀藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田吉徳、母:流瀬(辻氏・実成院) |
兄弟 | 宗辰、重煕、利和、重靖、重教、治脩、他 |
妻 | 正室:徳川宗将の娘・千間姫(寿光院) |
子 |
斉敬、斉広、頴(松平容詮正室)、藤(松平頼儀正室) 養子:治脩 |
来歴
編集寛保元年(1741年)に金沢で生まれ、そのまま金沢で成長した。[1]当初、加賀藩年寄村井長堅の養子になる予定であったが、宝暦3年(1753年)5月に藩主となった異母兄・重靖の命により、村井との養子の約束を解消して前田家に留まる。同年10月5日、加賀藩は藩主であった重靖の病死を公表した。このとき、後継者であった重教はただちに江戸へ向かい、幕府から家督相続の許可を得る手はずだったが、麻疹にかかって出発できず、藩首脳部で大きな問題となる。同月15日、諱を利篤とする。同月17日、松平の名字を与えられる。[2]宝暦4年(1754年)2月、健康を回復して金沢を出発し、江戸に向かう。同年3月11日、将軍徳川家重に御目見し、末期養子として家督を相続する。同年4月、正四位下、左近近衛少将に叙任、加賀守を称する。また将軍家重から偏諱を授かって重基に改名する。翌宝暦5年(1755年)12月、左近衛権中将に昇進する。また明和2年(1765年)、将軍世子家基の諱を憚って重教に改名した。
藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き、宝暦4年(1754年)まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続いた。また相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は一層苦しくなっていた。宝暦9年(1759年)4月10日、金沢に大火が起こり、金沢城をはじめ1万5百戸余りが焼失し、幕府から金5万両を借りて急場をしのいだ。
また、重教は加賀狂言などの能狂言の普及に努めた。明和8年(1771年)に家督を異母弟の治脩に譲って隠居したが、その後にもうけた息子の斉敬、次いで斉広が治脩の養子となった。囲碁・将棋も愛好し、隠居後の安永8年(1779年)には「九歳の将棋を指す者と十五歳以下の女子で囲碁を打つ者」を召し出すようにという通知を出し[3]、晩年の天明4年(1784年)には家臣たちと毎日のように対局を行ったという記録がある[4]。
天明6年(1786年)に46歳で死去した。