式子内親王
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう)[* 3]、久安5年(1149年)[* 1] - 建仁元年1月25日(1201年3月1日)[* 2])は、日本の皇族。賀茂斎院。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法[1]。
式子内親王 | |
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(1883年(明治16年)新撰百人一首より) | |
続柄 | 後白河天皇第三皇女 |
称号 | 萱斎院、大炊御門斎院 |
身位 | 内親王、准三宮 |
出生 |
久安5年(1149年)[* 1] |
死去 |
建仁元年1月25日(1201年3月1日)[* 2](享年53) |
父親 | 後白河天皇 |
母親 | 藤原成子 |
役職 | 賀茂斎院 |
経歴
編集平治元年(1159年)10月25日、内親王宣下を受け斎院に卜定。以後およそ10年間、嘉応元年(1169年)7月26日に病により退下[2][* 4]するまで賀茂神社に奉仕した。
退下後は母の実家高倉三条第[3]、その後父・後白河院の法住寺殿内(萱御所[4])を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までに[5]、叔母・八条院暲子内親王のもとに身を寄せた[* 5]。同年7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院におり[6]、准三宮宣下[7]を受けている。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月[8]までは続いた。
後に、[* 6]八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた[* 7]。白河押小路殿に移り、父・後白河院の同意を得られないまま出家[* 8]した。
建久3年(1192年)、後白河院崩御により大炊御門殿ほかを遺領として譲られた[* 9]が、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができなかった。建久8年(1197年)には蔵人大夫・橘兼仲夫婦の託宣事件[* 10]に連座し洛外追放が検討されたが[* 11]、実際に処分は行われなかった。
正治元年(1199年)5月頃から身体の不調が見られ[9]、年末にかけてやや重くなる[10]。正治2年(1200年)後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、藤原定家に見せている[11]。その後ほどなく病状が悪化[* 12]、東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする案あるも病のため実現せず、建仁元年(1201年)1月25日[12]薨去。享年53。
歌人として、歌合や定数歌などによる歌壇活動の記録が極めて少なく、現存する作品も400首に満たないが、その3分の1以上が『千載和歌集』以降の勅撰集に入集している。
逸話
編集藤原定家との関係
編集藤原俊成の子・定家は治承5年(1181年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ[3]、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で姉の竜寿の小間使いである家司のような仕事を行っていた。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については1年後の命日[12]まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。
後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし
— 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四
この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している[13](しかし、新古今和歌集撰者名注記によると定家はこの歌は評価はしておらず、撰者名にはない)。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』などの文芸作品を生じた。また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった[14]、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた[15]、あるいは定家の父・俊成も彼らの仲を知って憂慮していた[16][17]等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」[15][18]とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵[19]の西北にある。しかし、後白河天皇より相続した白河常光院からは遙かに離れており、根拠はない。
恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり[3]」「御弾箏の事ありと云々[4]」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘[20]もある。ただし、云々とは伝聞を示す言葉であり、直接の感想ではない。
法然との関係
編集法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったことが知られていたが、この尼が式子内親王である[* 13]とする説[21][22]が現れ、そこから内親王の出家の際の導師が法然であった可能性、さらには内親王の密かな思慕の対象であったという推測[23]も行われている。
歌壇における評価
編集『新古今和歌集』に大量入集するなど、この時代の代表的女流歌人と見なされていたと考えられる。歌合等の歌壇行事への参加がほとんど記録されていない式子内親王が、このような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと[* 14]、その子・定家とも交流があったことにより、この時代の主流に直接触れ得る立場だったことが挙げられる。後鳥羽院は、近き世の殊勝なる歌人として九条良経・慈円と共に彼女を挙げ、「斎院は殊にもみもみ[* 15]とあるやうに詠まれき[24]」などと賞賛している。
近現代の評価
編集式子内親王の歌に対する評価が、技巧的 - 自然観照的、あるいは定家的 - 西行的等と、両極端に分かれる傾向[25]が指摘されると共に、その抒情性は、和泉式部的な激情から玉葉風雅的な「すみきった抒情」に純化される中間に位置する[25]との意見がある。また、本歌取りの手法に着目して、主知的な宮内卿と情緒的な俊成卿女の中間、やや宮内卿よりに位置する[26]という分析もある。また、古歌からの本歌取りのみならず、『和漢朗詠集』等の漢詩に題材を得た歌も少なくない[26]。生活や振舞に制約の多い中、作品のほとんどが百首歌という創作環境において、虚構の世界に没入[27]していく姿勢が、こうした特徴の背景にある。
別府観海寺温泉の伝承
編集大分県別府市観海寺には、式子内親王が同地で葬られたとの口承がある。橘兼仲の託宣事件に連座して都を追われた内親王は、領主・大友能直の内室風早禅尼が中興した尼寺観海寺において、尼宮承如法として晩年を過ごし、没後同地で荼毘に付されたとする。同地に建つ現観海禅寺には式子内親王の墓[28]、その西南の山中には、風早禅尼が内親王を荼毘にふした塚と称する遺跡もあり、観光コース[29]にも取り入れられている。記録上、京都での病死が確実視される式子内親王が、別府で晩年を過ごしたことは、史実としてはあり得ないが、託宣事件の処理に関連して、内親王や他の関係者の追放先として同地が検討の対象となった可能性を指摘する見解[23]もある。
作品
編集歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
千載和歌集 | 式子内親王 前斎院式子内親王 |
8 1 |
新古今和歌集 | 式子内親王 | 49 | 新勅撰和歌集 | 式子内親王 | 14 |
続後撰和歌集 | 式子内親王 | 15 | 続古今和歌集 | 式子内親王 | 9 | 続拾遺和歌集 | 式子内親王 | 5 |
新後撰和歌集 | 式子内親王 | 4 | 玉葉和歌集 | 式子内親王 | 16 | 続千載和歌集 | 式子内親王 | 2 |
続後拾遺和歌集 | 式子内親王 | 5 | 風雅和歌集 | 式子内親王 | 14 | 新千載和歌集 | 式子内親王 | 3 |
新拾遺和歌集 | 式子内親王 | 3 | 新後拾遺和歌集 | 式子内親王 | 4 | 新続古今和歌集 | 式子内親王 | 4 |
名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
---|---|---|---|
正治初度百首 | 正治2年(1200年) | 前斎院 式子内親王 |
- 私撰集等
- 三百六十番歌合(正治2年(1200年))
- 「前斎院 式子内親王」名で39首
式子内親王の家集の諸本は、三種の百首歌を後人がまとめたものがベースとなっている。
- A:『千載和歌集』以降[31][* 16]、B百首奥書以前(1187年以降、1194年以前)。建久期の初め頃[* 17]と推定されている。師である俊成の影響、先行する和歌や漢詩文からの摂取が見られる[32]。100首が現存[31]。
- B:「建久五年五月二日」の奥書を持つ。表現や詞に新奇さを求め、定家に代表される新風への傾斜が見られる[32]。101首が現存[31]。
- C:正治2年(1200年)のいわゆる『正治百首』に出詠されたもの。過去に摂取した諸要素の消化、本歌取への習熟が見られる[32]。99首が現存[31]。
諸本
- 『式子内親王御哥』[33]
- 筑波大学中央図書館蔵本。『式子内親王集』の原型と思われ、三種の百首歌で構成。書写時の欠脱も多く、219首が現存。
- 『式子内親王集』(別名 『式子内親王御家集』『萱斎院集』『前斎院御百首』)
以上、家集に見られる歌は、計361首(実際の諸本所収の歌数は欠脱により少なくなっている)だが、この他に式子内親王の作とされる歌が39首[* 19]あり、総計400首の作品が残されていることになる。
百人一首
編集- 89番
百首歌中に忍恋を 式子内親王
— 『新古今和歌集』 巻第十一 恋歌一
玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
- 伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという[16]。
実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされる。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b 京大本『兵範記』(『人車記』)断簡に含まれていた嘉応元年七月廿四日の式子内親王斎院退下条の裏書に「□斎王 高倉三位腹 御年廿一」と記載されているのが発見された(上横手、井上(参考文献))。また。これにより『定家小本』嘉応元年七月廿四日条にある「賀茂斎内親王式子依御悩退出」の注記「廿一」が年齢を示すものと判明した(兼築(参考文献))。
- ^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条に「午の時許りに束帯して大炊御門の旧院に参ず。今日御正日なり」とある。
- ^ 内親王の名を「ショクシ」と訓むのは歌道の故実読みであって、藤原俊成を「シュンゼイ」、藤原定家を「テイカ」と訓むのと同様の呼び名である。「シキシ」も同様。むろん本人や近親者たちが内親王を「ショクシ」と呼んだわけではない。この名の正式な読みかたは今もって不明であるが、角田文衛の説により「ノリコ」とするのが通説となった。
- ^ 退下の要因としては、他に父後白河院の出家との関連が指摘される(村井(参考文献))。
- ^ 背景として、源平の争乱期において、八条院が有力な権門勢家から独立したアジールとして機能していたこと(五味文彦 『藤原定家の時代』 1991年7月 岩波書店)、及び父後白河院と八条院との良好な関係が指摘されている(村井(参考文献))。
- ^ 時期は確定できないが、『愚昧記』により八条院にいることが確認できる1190年(文治6年)正月3日以後、後白河院崩御(1192年(建久3年)3月13日)以前と考えられている(村井(参考文献))。
- ^ 故斎院御八条殿之間、依思御付属事、奉咒詛此姫宮並女院、彼御悪念為女院御病之由、種々雑人狂言、依之斎院漸無御同宿(『明月記』建仁二年八月廿二日条)
- ^ 於押小路殿御出家之間、故院猶以此事御不請(同書)。
- ^ 吉田経房が式子内親王の後見になっている(『玉葉』)。
- ^ 後白河院の霊が託宣したと偽り、夫婦共に流罪となった。
- ^ 前の齋院式子内親王 後白川院皇女 この事に同意するの間、洛中に坐すべからざるの由、沙汰有りと雖も、議有って止められをはんぬ(『皇帝紀抄』 建久八年三月)
- ^ 乳房が腫れ足が浮腫む等の症状が記録されていることから、乳癌と推定されている(坂東(参考文献))。
- ^ 法然自筆の手紙では「シヤウ如ハウ」と書かれており(金子彰、他編 「式子内親王宛法然書状 語彙総索引稿」 『日本文學』 101,123-151 2005年3月15日 東京女子大学)、内親王の法名「承如法」と適合する。
- ^ 俊成の『古来風躰抄』は内親王に奉った作品であるという説が一般的である
- ^ 後鳥羽院がこの語を使うのは、彼女と源俊頼の二人に対してであり、「人はえ詠みおほせぬやうなる姿」と形容される独創性と技巧を備えたスタイルを指しているようだ。
- ^ 『新古今和歌集』の詞書で斎院時代の作とされる歌を含んでいることから、百首成立を斎院在任中に遡らせる主張(国島章江 「式子内親王集-形態と成立について」 『国語と国文学』 1960年7月号)もある。
- ^ 夏部冒頭にある、喪服を着替える歌の解釈として、1171年没の妹休子内親王を想定する説(馬場あき子 『式子内親王』 1969年)があったが、『千載和歌集』の後という条件から、1192年没の父後白河院を想定する説(武田史子 「『式子内親王集』の研究 : 特に百首歌の成立時期について」 『国文白百合』 8,16-20 1977年3月 白百合女子大学)も提唱されている。
- ^ 合計73首、内他作者3首、百首歌との重複9首を除き、61首(山崎(参考文献))。
- ^ 勅撰集(家集への補入の漏れ)5首、三百六十番歌合17首、私撰集6首、五社百首中の歌11首(山崎(参考文献))。
出典
編集- ^ 『賀茂斎院記』 群書類従 補任部 巻四十四
- ^ 『皇帝紀抄』
- ^ a b c 『明月記』治承五年正月三日条
- ^ a b 『明月記』治承五年九月廿七日条
- ^ 『吉記』元暦二年正月三日条
- ^ 『吉記』元暦二年七月十二日条
- ^ 『山槐記』元暦二年八月十日条
- ^ 『愚昧記』文治六年正月三日条
- ^ 『明月記』正治元年五月一日条, 四日条, 十二日条
- ^ 『明月記』正治元年十二月四日条
- ^ 『明月記』正治二年九月五日条
- ^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条
- ^ 『後深草院御記』
- ^ 『謡曲拾葉抄』
- ^ a b 『源氏大綱』真木柱
- ^ a b 『渓雲問答』『百人一首夕話』
- ^ 『大通俗一騎夜行』巻二 「文の手に葉を飾る幽霊」
- ^ 『応仁記』巻三
- ^ “京都上京さんぽ”. 般舟院陵. 上京歴史探訪館. 2011年12月20日閲覧。
- ^ 今村(参考文献)
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- ^ 岸信宏 「聖如房に就いて」 『仏教文化研究』 第五巻
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- ^ 『後鳥羽院御口伝』
- ^ a b 鍵本(参考文献)
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- ^ “畠田研究室”. 02年度 別府班-調査報告書. 立命館アジア太平洋大学 (2003年2月). 2011年12月20日閲覧。
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- ^ a b c 小田(参考文献)
- ^ a b 武井(参考文献)
参考文献
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- 三好千春 「准母論からみる式子内親王―後鳥羽院制下における不婚内親王の存在形態―」 『女性史学』19
- 井上宗雄 「私説・記録と和歌研究」 『明月記研究』 6号 2001年11月 明月記研究会
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- 上横手雅敬 「式子内親王をめぐる呪詛と託宣」 『古代文化』 56-1 2004年
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- 坂東定矩 『歴史人物お脈拝見―著名人も悩んだ病気のあれこれ』 1991年8月 ぎょうせい ISBN 978-4324027875