さくら (列車)
櫻・さくらは、かつての鉄道省、日本国有鉄道(国鉄)、およびそれを引き継いだJR各社で運行されていた(運行されている)特別急行列車の列車愛称である。
この愛称は日本の鉄道史上、次の4列車で使用されている。
- 第二次世界大戦前の1923年から戦時下の1943年まで、鉄道省が東京駅 - 下関駅間で運行していた第3・第4特別急行「櫻」
- 国鉄の設立後、1951年より1958年まで、国鉄が東京駅 - 大阪駅間で運行していた臨時・不定期特別急行「さくら」
- 1959年から2005年まで、国鉄およびJRが東京駅 - 長崎駅間(1965年 - 1999年は佐世保駅発着の編成を併結)で運行していた寝台特急(九州特急)「さくら」
- 2011年から、西日本旅客鉄道および九州旅客鉄道が、山陽新幹線・九州新幹線で運行している新幹線「さくら」
本項では、上記のうち1 - 3について解説するものとする。
概略
編集「櫻」「さくら」の列車愛称は、鉄道省・国鉄・JRの歴史上においては、第二次世界大戦前の1923年(大正12年)7月に鉄道省が東京駅 - 下関駅間で運行開始した第3・第4特別急行列車に対し、1929年(昭和4年)9月に公募により「櫻」(さくら)と命名したのが起源である。これは、戦後恐慌後の「慢性不況」で利用客が減少していた鉄道に活況をもたらそうと、鉄道省は当時欧米で広まっていた列車愛称を日本の列車にもつけて親しみを持ってもらおうと公募を行った。
サクラが日本の事実上の国花であり、人々に好まれる花であることから、第1・第2特別急行列車の「富士」と共に鉄道省が最初の列車愛称として採り入れたものだった。
終戦を挟み、「櫻」の愛称は1951年(昭和26年)より1958年(昭和33年)まで、国鉄が東京駅 - 大阪駅間で運行していた臨時・不定期特別急行列車の愛称として再登場する(同列車については東海道本線優等列車沿革も参照されたい)。このときは漢字ではなく、平仮名の「さくら」とされた。
「さくら」の愛称は1959年(昭和34年)に国鉄およびJRが東京駅 - 長崎駅間を結ぶ寝台列車(寝台特別急行列車)の愛称として用いることになり、以後2005年(平成17年)までこの愛称が用いられることとなった。この間、1965年(昭和40年) - 1999年(平成11年)は佐世保駅発着の編成を併結していた。
同列車の廃止後に「さくら」の愛称は一旦途絶えたが、2011年(平成23年)3月に九州新幹線が全線開業することを機に、九州旅客鉄道(JR九州)と西日本旅客鉄道(JR西日本)は九州新幹線と山陽新幹線を直通運転する列車名の公募を行い、その結果に基づき「さくら」の愛称を復活させることが2009年(平成21年)2月26日に発表された[1][2]。「さくら」の名称は応募総数168,951通のうち最多となる7,927通を獲得し、直通運転用に開発された新車両N700系7000番台・8000番台のコンセプトである「日本の美しさ」に合致することからも選ばれた。
国鉄・JR特急としての「さくら」
編集1929年9月に鉄道省が当時東京駅 - 下関駅間で運行していた、特別急行列車に列車愛称を与えたが、そのうち3・4列車に「櫻」(さくら)の愛称を与えた。
この3・4列車は、1923年7月から運行を開始したが、この列車は、1912年6月から運転を開始していた日本初の特別急行1・2列車に次ぐものであった。しかし、編成は1・2列車が一等・二等車のみで編成され、食堂車も「洋食堂車」を連結していたのに対し、3・4列車は三等車を中心に連結し、食堂車は「和食堂車」だった[注 1]。どちらかといえば大衆向けの列車であったようである。1・2列車と続行するダイヤで運転されていた。
1925年5月より3・4列車に充当される三等車に専用客車として2列一方向固定座席を備えるスハ29300形(スハ28400形)・スハフ29500形(スハフ28800形)に置き換えた。
「櫻」の愛称が与えられた後1930年には編成をスハ33900形・スハフ35250形といった鋼製客車へ置き換えられ、1931年6月からは京都駅 - 下関駅間で三等寝台車を連結(1934年3月より全区間連結)、1934年12月の丹那トンネル開通に伴うダイヤ改正では二等寝台・座席車が連結されるようになった。この時、1・2列車「富士」との続行運転もとりやめられ、1時間半の間隔を置いて運転するようになった。
1937年には輸送量増強のため三等座席車をスハ32800形に置き換えられ、1941年7月には戦時体制の強化により三等寝台車の連結が中止された。
1942年11月の関門トンネル開通によるダイヤ改正で、「櫻」は鹿児島駅まで延長されるが、同時に列車番号をそれまでの東京駅 - 下関駅間各等急行7・8列車(改正後は東京駅 - 鹿児島駅間各等急行3・4列車)と番号を入れ替える形で二・三等急行7・8列車に格下げとなり、愛称も消滅した。しかし、東京駅 - 下関駅間のダイヤ、編成については特急「櫻」と同じである。
1943年7月にそれまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする制度変更が実施されたが、この変更で旧「櫻」である東京駅 - 鹿児島駅間二・三等急行7・8列車は第一種急行料金が適用され、列車番号も3・4列車に戻された。同年10月に「決戦ダイヤ」と称する、旅客列車を削減・速度低下させるダイヤ改正が行われた際も東京駅 - 鹿児島駅間二・三等急行3・4列車(旧「櫻」)は残されたが、1942年11月から1943年6月まで3・4列車を名乗っていた各等急行7・8列車は展望車・一等寝台車連結を中止、下関駅で打ち切りとなった。なお、この急行7・8列車のダイヤは、戦後「きりしま」の元となる東京駅 - 鹿児島駅間直通急行列車の元ともなっている。1944年4月には「決戦非常措置要綱」に基づいて「富士」を廃止、一般の営業列車から展望車・一等車・寝台車・食堂車の連結が中止された後も急行3・4列車は存続、列車の統廃合を経て1945年3月の時点で残存した唯一の東京駅 - 下関駅間急行1・2列車は3・4列車のダイヤを引き継いだものであった[3]。
第二次世界大戦後「さくら」の愛称が復活したのは、1951年4月 - 5月に東京駅 - 大阪駅間を運行した特急「つばめ」・「はと」の救済臨時列車として東京駅 - 大阪駅間に設定された臨時特急列車に「さくら」の名称を与えたものである。
この時こそ三等車と食堂車のみの編成組成となったが、この列車はこの後も設定され、二等車(特別二等車)の設定もなされた。戦前の「櫻」と同様、三等車主体の編成であったが、著名人や外国人が乗車した日には一等展望車が増結されたこともあった。1957年10月のダイヤ改正には不定期列車に昇格。東海道本線に電車特急が登場する1958年10月のダイヤ改正まで多客時の増発臨時列車として運転された。
また、「ビジネス特急」の仮称を持っていた20系電車「こだま」号の登場に際して列車愛称を一般から公募した時の仮称として一部部内で用いたともされる。
高度経済成長時代に入ると、東京と九州を結ぶ長距離寝台特急列車として、緒となる「あさかぜ」に続く形で長崎本線系統の特急列車として運行を開始した列車に「さくら」の名が与えられた。1965年からは一部の編成が佐世保線佐世保駅まで乗り入れるようになった。
なお、東京から長崎本線を経由する系統の長距離寝台特急列車には当初「あさかぜ」に続く風に関する愛称の列車として「さちかぜ」が設定されたが、「あさかぜ」と紛らわしいため、1958年10月のダイヤ改正時に東京 - 大阪駅間ビジネス特急の佳作であった「平和」に改められた。しかし、「平和」の語調の硬さからか1959年7月の20系客車導入に際し再び改められ「さくら」となった。なお、この「さくら」も東京駅 - 大阪駅間ビジネス特急列車愛称の佳作として名を連ねていた。
後に運行を開始する鹿児島本線系統の「はやぶさ」、日豊本線系統の「富士」と共に、いわゆる「九州ブルートレイン」の一角として国鉄並びにJRの花形列車となったが、同じ国鉄・JRの新幹線(東海道・山陽新幹線)や、完全な競合である航空機などの競合交通手段に対する時間的な不利や、1970年代から続いた相次ぐ運賃・料金の値上げ、1990年代以後の航空運賃の多様化による実質的な値下げや格安ビジネスホテルの台頭、車両の老朽化などによって乗客は減少の一途を辿り、1999年に佐世保駅発着列車が廃止され、「はやぶさ」との併結運転で残っていた長崎駅発着列車も2005年3月に廃止となった。
寝台特急「さくら」
編集さくら | |
---|---|
さくら(2004年6月13日 東京駅) | |
概要 | |
国 | 日本 |
種類 | 寝台特別急行列車 |
現況 | 廃止 |
地域 | 東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・岡山県・広島県・山口県・福岡県・佐賀県・長崎県 |
前身 | 特急「平和」 |
運行開始 | 1959年7月20日 |
運行終了 |
1999年12月4日(佐世保発着)[4] 2005年3月1日 |
運営者 |
日本国有鉄道(国鉄)→ 九州旅客鉄道(JR九州) 東日本旅客鉄道(JR東日本) 東海旅客鉄道(JR東海) 西日本旅客鉄道(JR西日本) |
路線 | |
起点 | 東京駅 |
終点 | 長崎駅・佐世保駅 |
営業距離 |
1350.5km(長崎発着) 1328.8km(佐世保発着) |
運行間隔 | 1往復 |
列車番号 | 3・43、4・44(運行末期) |
使用路線 |
JR東日本:東海道本線(東海道線 (JR東日本)) JR東海:東海道本線(東海道線 (静岡地区)・東海道線 (名古屋地区)) JR西日本:東海道本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)・山陽本線 JR九州:山陽本線・鹿児島本線・長崎本線・佐世保線 |
車内サービス | |
クラス | B寝台 |
就寝 |
B寝台「ソロ」:8号車 開放式B寝台:7・9 - 11号車 |
技術 | |
車両 | 14系客車(JR九州長崎鉄道事業部長崎運輸センター) |
軌間 | 1,067 mm |
電化 |
直流1,500 V(東京 - 下関間) 交流20,000 V・60 Hz(門司 - 長崎間) |
廃止時の運行概要
編集1997年より、この列車の運行区間であった東京駅 - 長崎駅間の運行営業キロ1,350.5kmは、定期の寝台特急列車の中では第1位の運行距離であった。なお、臨時列車も含めると廃止後も1位は「トワイライトエクスプレス」である。
2000年3月11日のダイヤ改正以降は、下り列車が博多駅 - 長崎駅間で後続の特急「かもめ」に鳥栖駅・肥前山口駅・湯江駅で追い抜かれた。「九州ブルトレ」は、昼行特急の運行を優先されることが多かった。
停車駅
編集- 1999年11月29日時点
- 1999年11月30日 - 廃止まで
- 東京駅 - 横浜駅 - 熱海駅 - 沼津駅 - 富士駅 - 静岡駅 - 浜松駅 - 豊橋駅 - 名古屋駅 - 岐阜駅 - 京都駅 - 大阪駅 - 広島駅 - 岩国駅 - (柳井駅) - (下松駅) - 徳山駅 - (防府駅) - 小郡駅(現:新山口) - (宇部駅) - 〔厚狭駅〕 - 下関駅 - 門司駅 - 小倉駅 - 博多駅 - 鳥栖駅 - 佐賀駅 - 肥前山口駅(現:江北) - 肥前鹿島駅 - 諫早駅 - 長崎駅
なお、大幅な遅延が生じた場合は品川駅で運転を打ち切ることがあり、この場合は小田原駅 - 品川駅間は東海道貨物線経由で運転して横浜駅を経由しないため、小田原駅に臨時停車していた。
使用車両・編成等
編集表・編・話・歴・PJR・PJRN・C | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富士・はやぶさ・さくら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 大分・熊本・長崎 東京 →
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
客車は14系客車を使用し、1人用個室B寝台車「ソロ」1両と開放式B寝台車4両の5両で組成していた。
機関車は、東京駅 - 下関駅間をEF66形、下関駅 - 門司駅間をEF81形、門司駅 - 長崎駅間をED76形が牽引していた。
なお、2005年3月1日のダイヤ改正への移行に伴う準備の関係で、下りは2月25日発、上りは2月22日発から列車廃止まで1人用A寝台個室「シングルデラックス」オロネ15形3000番台を連結していた。この車両は24系客車からの改造車であった。
担当乗務員区所
編集車掌は全区間、九州旅客鉄道(JR九州)博多車掌区が担当した。運転士は各旅客会社が自社区間を担当したが、下関駅 - 門司駅間は日本貨物鉄道(JR貨物)門司機関区が担当した。
寝台特急「さくら」が登場する作品
編集- 映画
- 音楽
- カラオケ背景画面
- 通信カラオケの一部機種で「長崎の女」(春日八郎)を指定すると、一時期「さくら」が長崎駅に到着する映像が映し出された。
- テレビドラマ
-
- 西村京太郎トラベルミステリー - 山陽・東海道殺人ルート(1990年版)
- 『鉄道公安官』(第1話、1979年4月9日放送回)
- 「寝台特急(ブルートレイン)の少年」、冒頭からほぼ全編で下りさくら号が話の舞台になる
- テレビアニメ
東京対長崎県連絡列車沿革
編集戦前の創始とその後
編集- 1942年(昭和17年)11月:関門トンネル開通によるダイヤ改正により、東京駅 - 下関駅間を運行していた特別急行列車「富士」が長崎駅まで延長。
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)4月:急行5・6列車が廃止。
戦後の運行再開後
編集- 1948年(昭和23年)8月:東京駅 - 長崎駅間を大村線経由で運行する準急行列車として2023・2024列車が運行。
- 1949年(昭和24年)9月:東京駅 - 長崎駅間を大村線経由で運行する2023・2024列車が急行列車に格上げ。同時に列車番号も41・44列車に変更。
- 1950年(昭和25年)11月:急行41・44列車に「雲仙」(うんぜん)の列車愛称が与えられた。
- 1952年(昭和27年)3月10日:サンフランシスコ条約発効に伴い、進駐軍専用列車の取り扱いを急行列車格の特殊列車に変更。これにより、以下の列車を設定。
- 1954年(昭和29年)10月:このときのダイヤ改正に伴い、次のように変更。
- 特殊列車群に愛称が与えられ、1001・1002列車に「西海」(さいかい)の名称が与えられた。なお、1005・1006列車は「早鞆」(はやとも)の名称が与えられたが、運行区間を東京駅 - 博多駅間に短縮。
- 「雲仙」の経由路線を佐世保線・大村線経由から、長崎本線肥前鹿島駅経由に変更。
第二の九州特急「さちかぜ」→「平和」の登場
編集長崎寝台特急「さくら」登場後の展開
編集さくら | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 長崎 東京 →
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 1960年(昭和35年)7月:「はやぶさ」に20系客車が導入された。これに伴い、ディーゼル発電機と電動発電機の双方を搭載した電源車である「カニ22形」が使用されるようになる。
- 1961年(昭和36年)
さくら・あきよし追突事故の影響
編集前述したように、1961年12月29日に発生した事故により、「さくら」用20系客車編成の内14両中12両が破損し、基本編成8両は代車を確保したものの、付属編成6両が不足する事態となった。当時最新の20系客車は、他の寝台特急列車の運用も合わせてぎりぎりの両数がフル稼働している状況であり、しかも年末年始の多客期ゆえに予備車まで総動員しており、直ちにこれらの代替車を捻出することは不可能であった。そのため、事故車の復旧が完了するまでの暫定処置として、10系客車やそれ以前に製造された旧形客車(スハネ30形など)を付属編成の代替として20系編成に併結し、「さくら」の運行に当てることとした[注 3]。
2等寝台(現在のB寝台)の基本設備に限れば、10系寝台車の設備は20系客車に比して大きく劣るものではなかった。しかし、20系客車と旧形客車とは以下の点で異なっていた。
- 貫通幌が異なり互換性が無かった。なお貫通幌自体は14系・24系では旧形客車と同じものに戻されている。
- 集中電源方式による電気暖房の20系と異なり、旧型の暖房は暖房用蒸気を機関車から蒸気管により供給する構造になっている[注 4]。このことから常に機関車側に連結する必要があり、下り列車では非貫通構造の20系電源車の前位、つまり長崎方に連結せざるをえなかった。
このため上り、下りとも基本編成と付属編成との間の通り抜けができず、付属編成の乗客は食堂車が利用できないなど、サービス面で問題となった。このため冷房使用期間ではないものの、国鉄は旧形客車部分を利用した乗客の特急料金を100円払い戻す措置を行った。
「さくら」の変遷
編集- 1963年(昭和38年)12月:「さくら」に二等寝台車1両を増結。この増結した車両は博多駅回転となった付属編成に連結。
- 1964年(昭和39年)6月:「さくら」の緩急二等座席車「ナハフ20形」を緩急二等寝台車「ナハネフ22形」に変更。
- 1965年(昭和40年)
- 3月:「さくら」の緩急二等座席車「ナハフ21形」を緩急二等寝台車「ナハネフ21形」に変更。これにより、二等座席車の連結を終了。
- 10月:ダイヤ改正により、「さくら」の運行区間を東京駅 - 佐世保駅・長崎駅間に変更。
さくら | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 早岐・長崎 佐世保/東京 →
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 1966年(昭和41年)10月:「さくら」の基本編成を長崎駅発着、付属編成を佐世保駅発着に変更。
- 1967年(昭和42年)10月:このときのダイヤ改正により「九州観光列車」の名称を変更し、長崎行きを「五島」(ごとう)とする。
- 1968年(昭和43年)
- 1970年(昭和45年)10月1日:急行「ながさき」の運行区間を大阪駅 - 長崎駅間とし、列車名を「雲仙」に変更。これにより、「さくら」と「はやぶさ」が東京駅対長崎県連絡の使命を負う事となる。
- 1972年(昭和47年)3月15日:「さくら」と「みずほ」「あさかぜ(下り)2号・(上り)3号の使用車両を、当時「新型ブルートレイン」と称された14系客車(14系14形)に変更。詳細は下図を参照されたい。食堂車はオシ14形0番台、A寝台車はオロネ14形0番台を使用、B寝台車はオハネフ14形0番台とオハネ14形0番台を使用。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
- 1975年(昭和50年)3月10日:山陽新幹線博多駅乗り入れに伴うダイヤ改正を実施。この際、「はやぶさ」の車両を20系客車から、24系客車(24系24形)に変更。これに伴い「はやぶさ」を西鹿児島駅・長崎駅行きから、西鹿児島駅行き(付属編成は熊本駅まで)に変更し、分散電源方式の14系客車で運転していた熊本駅行きの「みずほ」を熊本駅・長崎駅行きに変更した。この時期の「さくら」・「みずほ」の編成図についてはこちらを参照されたい。
- 1978年(昭和53年)7月:「さくら」の東京駅 - 下関駅間の牽引機がEF65形500番台(P型)からEF65形1000番台(PF型)に交代。また、この頃で列車食堂の郷土料理メニュー導入により食堂車にちゃんぽんや皿うどんなどの長崎県の郷土料理が登場。
- 1983年(昭和58年):寝台特急「さくら」号及び寝台特急「みずほ」号に使用中の14系14形のオハネ14形及びスハネフ14形のB寝台を3段式から2段式に改造するのに伴い、長期にわたりB寝台車の計画的な欠車を実施。一部の列車では、電源車であるスハネフ14形の代用に座席車であるスハフ14形を連結。
- 1984年(昭和59年)
1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正頃から~1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正に掛けて↓
- 1985年(昭和60年)3月:「さくら」の東京駅 - 下関駅間の牽引機がEF65形1000番台からEF66形に交代。これに合わせ、同区間のヘッドマークのデザインを「みどり地にピンクの桜」へ変更。
- 1986年(昭和61年)11月1日:翌年の国鉄分割民営化に備え、品川運転所に集中配置されていた東京発九州行きの寝台特急客車の転配が行われ、以後、長崎編成は熊本運転所、佐世保編成は品川運転所が受け持つこととなった。
JR化以降
編集- 1987年(昭和62年)6月1日:この日から食堂車の営業担当を日本食堂長崎営業所から日本食堂新博多営業所に移行し、名物メニュー「長崎ちゃんぽん」と「皿うどん」がメニューから消滅する。それは新博多営業所を除く九州内の日本食堂の営業拠点がにっしょく九州(後にジェイアール九州トラベルフーズとなったが2005年7月に廃業)に経営分離されたため。
- 1988年(昭和63年)3月13日:この時のダイヤ改正に伴い、「さくら」編成の一部変更を行う。詳細はこちらを参照されたい。なお、この年の6月1日には日本食堂の経営分離に伴い、新博多営業所はJR東海系のジェイダイナー東海の営業拠点になっている。
- 1989年(平成元年)4月1日:食堂車の営業担当がJダイナー上野営業所に移行。
- 1990年(平成2年)12月1日:食堂車営業担当がJダイナー新東京営業所に移行するが、後の食堂車の売店営業後も1999年(平成11年)12月ダイヤ改正前の終了まで担当する。 なお、その前の1990年(平成2年)10月1日から上り列車の翌朝の食堂車営業開始時間が6時から7時に短縮。
- 1991年(平成3年)3月:「成田エクスプレス」運行開始に伴う人員確保のため、国鉄時代から担当していたJR東日本東京車掌区が乗務を降り、JR九州門司車掌区に移管。
- 1992年(平成4年)4月8日:山陽本線須磨 - 塩屋間で下り「さくら」と山陽本線と並行して走る国道2号から転落したトレーラーとの衝突脱線事故発生(寝台特急さくらトレーラー衝突事故を参照)。
- 1993年(平成5年)3月18日:「さくら」の食堂車が売店営業に差し代わる[6]。
- 1994年(平成6年)12月3日:このときのダイヤ改正により「あさかぜ」1・4号を臨時列車に格下げ、「みずほ」の廃止。これに伴う「さくら」での変更は以下の通り。
- 「さくら」が小倉駅 - 博多駅間を朝のラッシュ時間帯に通過することを回避するため、「さくら」と「富士」のダイヤを入れ替え、下り「さくら」を東京発16時台から18時台へ変更。これにより、従来「さくら」が列車番号として使用していた1列車及び2列車が「富士」に変更。3・4列車となる。
- また、佐世保編成を長崎編成と同一のJR九州車両の編成に変更。これにより、「あさかぜ1・4号」の廃止とともにJR東日本車両のJR九州への定期列車での乗り入れが消滅。なお、このため、従来熊本運転所所属の14系客車を長崎運転所[7] へ転属。
- これにより、長崎編成・佐世保編成双方にオロネ14形、オハネ14形700番台、オシ14形を連結。
- なお、売店営業は長崎発着の編成のみで営業し、佐世保編成ではカーテンが閉められていた。
- 担当車掌区をJR西日本下関乗務員センターに変更。
さくら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 長崎・早岐 佐世保/東京 →
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
- 1996年(平成8年)末:臨時寝台特急「みずほ」廃止。
- 1997年(平成9年)11月29日:「さくら」への「カルテット」(オハネ14形700番台)の連結を終了。また、同年12月以降「さくら」の編成中のオハネ14形が、オハネ25形100番台を改造したオハネ15形1100番台に順次置き換えられ、1997年(平成9年)度末をもってオハネ14形の置き換えを完了する。
寝台特急「さくら」の終焉
編集- 1999年(平成11年)12月4日:「さくら」佐世保駅発着列車を廃止の上、熊本駅発着の寝台特急「はやぶさ」と併結運転開始[4]。また、担当車掌区を併結される「はやぶさ」にあわせJR九州博多車掌区に変更。
表・編・話・歴・PJR・PJRN・C | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富士・はやぶさ・さくら | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 大分・熊本・長崎 東京 →
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 変更概要は以下の通り。
- 「さくら」は長崎鉄道事業部長崎運輸センター所属の14系客車の6両編成、「はやぶさ」は熊本鉄道事業部熊本運輸センター所属の24系客車9両となり、東京駅 - 鳥栖駅間で「はやぶさ」「さくら」として併結運転を行った。
- 従来「はやぶさ」「富士」は共通運用であったため、「富士」編成は「はやぶさ」編成の24系25形客車9両と「さくら」編成の14系客車6両を併結した15両編成となった。
- また、編成単位での14系客車と24系客車の併結運転は史上初であり、サービス用電源はそれぞれ各編成の連結する電源車(カニ24形及びスハネフ14・15形)から供給された。なお、14系客車には非常時等に備え、併結運転対応工事が施された。
- 6両編成となった「さくら」には、従前「はやぶさ」及び「富士」に連結されていたオハネ25形1000番台(1人用B個室寝台車「ソロ」)を改造したオハネ15形2000番台が連結されたが、開放型A寝台車(オロネ14形)と食堂車(オシ14形)の連結は終了した。オロネ14形、オシ14形の運用離脱により、残る14系14形はスハネフ14形のみとなり、これ以降、24系25形からの編入改造車を含む14系15形が主体の編成となった。
- 「富士」・「はやぶさ」の24系編成には引き続き個室A寝台車「シングルデラックス」・「ロビーカー」が連結されたが、「ソロ」については前述の通り改造の上で14系編成に移された。また、オハネ25形2両をオハネ15形1100番台に追加改造し、14系編成に組み込んだ。
- 車内販売については日本レストランエンタプライズ(1997年10月1日に日本食堂から社名変更)が撤退したため、代わりにジェイダイナー東海(翌年にジェイアール東海パッセンジャーズに社名変更)の担当となり、乗務区間も東京駅 - 名古屋駅間に縮小された。
「さくら」単独運転最終日編成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 長崎・佐世保 東京 →
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
車両運用の関係で最終日の付属編成は門司止まりでの運転となった
|
- 2002年(平成14年)3月23日:「さくら」の開放式B寝台を1両、「はやぶさ」は2両減車。「さくら」は5両編成とし、「はやぶさ」は7両編成となる。
- この編成で「さくら」は廃止時まで運行される。こちらまたは2002年より2005年までの東京対九州諸都市連絡寝台特急の編成図も参照。
- 2005年(平成17年)3月1日:「さくら」廃止。最終日は鳥栖止まりとなった。
「さくら」最終日編成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 熊本・長崎・鳥栖 東京 →
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
転属の関係で最終日のさくらは鳥栖止まりで運転となった
|
脚注
編集注釈
編集- ^ 洋食堂車はあくまでも洋食専門で予約制のコース料理を提供していたのに対し、和食堂車は和食のみならず幅広い料理を大衆的な価格で提供していたという点が異なる。和食堂車だからといって洋食を提供していなかったわけではない。
- ^ 詳しくは、列車番号・列車番号の付番方法を参照されたいが、従来は客車列車・電車列車と使用車種の差違があっても同一線区を運行する列車には重複数字を用いなかった。しかし、1961年10月1日ダイヤ改正では特急列車の増発に際して、使用車種を識別するアルファベットと組み合わせて1本の列車を識別する形となった。そのため、単純に数字で「1」列車を名乗る列車が「さくら」(1列車、略して1レ)・「第一こだま」(1M列車)・「かもめ」(1D列車)と東海道・山陽本線上で3本が重複する事態となった。この時、「1D」を使用する列車は「かもめ」の他に「はつかり」・「おおぞら」が運行された。
- ^ 当時の20系客車はブレーキ装置が旧形客車とほぼ同じシステムの自動空気ブレーキだったので、ブレーキシステムといった観点では、旧形客車と20系とは普通に併結が可能であった。だが1960年代後半に、20系客車の110km/h運転実施にあたって施工された、ブレーキ率速度制御機能付き電磁自動空気ブレーキへの変更といった高速化対応改造後は、20系客車と旧形客車との併結は不能となった。その後20系客車の急行列車への転用で、一般のブレーキ装置を搭載する荷物車や郵便車を併結する可能性が生じたため、その時は電源荷物車の荷物室に空気圧縮機及び元空気溜めを搭載することで対応した。
- ^ 20系の電源系は三相交流600V/60Hzで、旧型客車の一部で実施された電気暖房用の交流1500Vとも、151系電車・キハ80系気動車で採用され客車では12系以降に標準化された三相交流440V/60Hzとも互換性がない。後年20系のバラ転用(1000番代・2000番代)の際には、スハフ12形から供給される電源を変換するための変圧器が搭載された。
出典
編集- ^ JR九州 新幹線の列車名決定!! Archived 2009年9月19日, at the Wayback Machine. - 九州旅客鉄道
- ^ 山陽新幹線・九州新幹線直通列車の列車名決定について Archived 2009年3月1日, at the Wayback Machine. - 西日本旅客鉄道 2009年2月26日
- ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.16 1985年6月 P.87 - P.98 古山善之助『蒸機全盛時代の国鉄の特急・急行列車II』を参照
- ^ a b 「JR年表」『JR気動車客車編成表 '00年版』ジェー・アール・アール、2000年7月1日、190頁。ISBN 4-88283-121-X。
- ^ a b “国鉄「さくら」「みずほ」に個室寝台車”. 交通新聞 (交通協力会): p. 3. (1984年5月13日)
- ^ “ブルトレ食堂車も廃止”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1993年3月18日)
- ^ なお、長崎運転所は1999年6月1日付で長崎鉄道事業部長崎車両センターとなった。
- ^ [1] - 長崎新聞 2009年2月14日[リンク切れ]