常葉隆興
日本の牧師、神学者 (1897-1977)
常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月20日)は、日本の牧師、神学者。日本キリスト改革派教会の創立者の一人。
ときわ たかおき 常葉 隆興 | |
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生誕 |
1897年(明治30年)1848年12月28日 日本 山形県 |
死没 |
1977年9月20日 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京高等工業学校、東京神学社 |
職業 | 牧師 |
配偶者 | モト |
親 | 父:作太郎、母:ノブ |
生涯
編集幼少期
編集山形県の新庄藩の士族の常葉作太郎とその妻常葉ノブの長男として生れる。父は上山小学校校長であった。1915年(大正4年)沖縄県立第一中学校を卒業。東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学。
日本基督教会時代
編集1918年(大正7年)に父が死去。叔父の常葉金太郎[1] によってキリスト教信仰に導かれ、同年1918年、日本基督教会の指導者植村正久牧師より富士見町教会にて洗礼を受ける。
1920年(大正9年)、植村正久の創立した東京神学社に入学、1923年(大正12年)に卒業。同級生に熊野義孝。小野村林蔵牧師の司式で結婚する。牧師夫人となったのは、常葉モトであった。後に二男二女を与えられる。1925年(大正14年)牧師の按手礼を受ける。
1935年(昭和10年)にウェストミンスター神学校に留学し、ジョン・グレッサム・メイチェンの講義を受講し。[2]改革派信仰の確信を得る。
1942年(昭和17年)東京府麻布区に日本基督教団森元町教会(現・日本キリスト改革派教会東京恩寵教会)を設立。
改革派時代
編集1946年、日本キリスト改革派教会の創立大会を開き、日本基督教団を離脱する。日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった」と、神の御前に告白した[3] 。1951年(昭和26年)に森元町教会を東京恩寵教会に改称する。
1961年(昭和36年)11月、新改訳聖書刊行協力会の日本基督改革派教会の代表および、会長に就任し、の新改訳聖書の翻訳事業をリードした。
著書
編集脚注
編集- ^ 叔父の金太郎は1905年(明治38年)に植村正久より洗礼を受け、1916年(大正5年)に日本基督教会伝道局巡回教師嘱託として佐渡島で伝道活動した人物で、戦闘的デモクラットと呼ばれた郷土史家であった。
- ^ 留学前にメイチェンの翻訳者である角田桂嶽牧師に出会っていた。
- ^ ジョン・ヤング『天皇制とキリスト教』燦葉出版社
初代: |
日本プロテスタント聖書信仰同盟 実行委員長 |
次代: 蔦田二雄 |