帝国クライス
帝国クライス(ていこくクライス、ドイツ語: Reichskreis)とは、神聖ローマ帝国で16世紀に確立した統治システムである。帝国を複数の帝国等族[注釈 1]を包含した10のクライスに分け[注釈 2][注釈 3]、ラント平和(地域内の治安維持)にあたった。平和破壊活動(一揆、暴徒化した傭兵、諸侯の侵略行為など)の規模に応じ、隣接するクライスと共同でその平定にあたることもあった。
「クライス(Kreis)」という言葉は、現在も行政単位として用いられており、日本語では一般に「郡」と訳されている。ただし、本項での「クライス」はすべて帝国クライスを意味する。
概要
編集帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、
帝国クライス制度は、いわゆる「アウクスブルクの宗教和議」で名高い1555年のアウクスブルク帝国議会で審議され、発令された帝国執行令で一応の完成を見た。
しかし、この制度は、帝国等族と皇帝の中間で機能するシステムであり、両者の力関係から、その位置付けは帝国執行令以前も以後も、時代と共に変遷している。
例えば、防衛は、創設時にはその管轄外であったが、帝国末期には防衛も担うようになった。特にフランスに隣接する地域では、ハプスブルク家の私兵と化した帝国軍に代わってクライス軍が帝国防衛の主戦力となった。
帝国クライス制度の成立
編集成立まで
編集いくつかの帝国等族を包含したブロックに帝国を分け、地域の治安維持に当たらせる発想は、皇帝ルドルフ1世の時代に遡る。1287年にルドルフは公共平和のために地域に基づき領邦をグループ化する試みを行っている。これは、大空位時代に政治的混乱から治安が悪化したことにより、自発的に生じた帝国等族間個別の盟約を帝国レベルで整備し直し、安定を図る試みであった。また、都市同盟を結び、帝国と独立した動きを示そうとした有力都市を牽制する意味もあった。
ヴェンツェル帝は、1383年に帝国平和盟約(ラントフリーデ)令を発令した。これは帝国を4つのパルタイ(党派)に分け、他からの攻撃に対して相互保護を行うという内容のものであった。しかしこの政策は、その背後に都市同盟解体の意図を察知した有力都市が参加しなかったため、実効性を持たないまま終息した。
その後、1388年に諸侯と都市同盟の対立が顕在化し、その直接対決の結果、都市同盟が力を弱めたため、ヴェンツェルは翌1389年に再度帝国ラントフリーデ令を発令した。今度は、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、中ラインの4つのアイヌンク(盟約)に分け、各アイヌンクは、諸侯4人、都市代表4人、国王が任命する長官1人からなる9人委員会を設け、裁判、刑の執行、治安維持のための援助要請を行うとした。しかし、多くの帝国等族にとってこのラントフリーデ令は都市同盟解体のための方便に過ぎず、その目的を達成した後は形骸化していった。
1415年、帝国改造を掲げた皇帝ジギスムントは、コンスタンツの帝国議会で、国王裁判権の強化を訴えた。それに伴い、帝国を4つのタイル(部分)、すなわち
- ライン、アルザス、ヴェッテラウ
- シュヴァーベン
- フランケン
- テューリンゲン、マイセン、ヘッセン
に分け、国王が派遣する指揮官がその平和維持、判決執行を行う政策を提案したが、諸侯の反発が強く実現はできなかった。
一方、1438年には逆に諸侯の側からクライスの提案があった。この案では、帝国を4つのクライス(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ライン、下ライン、ザクセン)に分け、有力諸侯の指揮下にある指揮官が平和維持および刑の執行を行うというものであった。この案に対して国王は、
- クライスは6つ(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ラインをそれぞれ分離)にすること
- 指揮官の選出について諸侯の意見が不一致の場合は国王がこれを任命すること
- 指揮官は領主・騎士・都市からなる10人の参議官と共同で活動すること
という修正案を提出した。これらはクライスを管理する指揮官、ひいてはその上位に位置することになる有力諸侯の影響力を減じようという策で、帝国都市は総論賛成・各論反対の立場をとり、諸侯は強く反発したために、クライス案自体が不成立となった。
成立初期
編集帝国運営に無関心であった皇帝フリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世が新たに帝位に就き、帝国改造の機運が高まった。マクシミリアンが皇帝主導での帝国の秩序回復を目指したのに対し、マインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘンネベルクは、公共の秩序を維持するためには主要な諸侯が帝国の意思決定に継続的に参加する必要があると主張していた。
こうした皇帝と諸侯との間でラント平和の主導権争いが行われる中、1495年に「永久ラント平和令」がヴォルムスの帝国議会で決議された。その実務機関として、諸侯の影響下に置かれた司法組織である帝国最高法院が設けられた。また、1500年のアウクスブルク帝国議会で、帝国等族の代表者が帝国の運営に参与する常設委員会として帝国統治院が設けられ、その参議官任命のための地理的区分として6つのクライス(フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーライン、ヴェストファーレン、ニーダーザクセン)が設定された。
しかし帝国統治院は皇帝の反対や有力諸侯の無関心から資金調達が困難となり、わずか2年後に解散し、帝国最高法院も有効に機能しなかった。1507年のコンスタンツ帝国議会では、帝国最高法院改革として、帝国台帳を作成して財政基盤を強化し、陪席判事選出の地域区分としてクライスを活用することが決議された。この時点では、クライスは選挙区としての役割しか持たず、行政上の効力は有していなかった。
しかし、マクシミリアンは、皇帝主導の治安維持構想を放棄したわけではなかった。1500年に選挙区として設けられたクライスに国王が任命する指揮官を配し、治安維持機能を持たせるという提案を1510年の帝国議会で行い、帝国等族の反対にあった。さらに、1512年の帝国議会では、国王の任命する指揮官の上位に帝国指揮官を置き、平和維持、刑の執行、防衛を行うこととする、という修正を加えた帝国クライス構想を再度提案した。帝国等族はこの提案に対して、
- 1500年の段階では例外とされているハプスブルク家の相続領および選帝侯領も加えて、クライスを10に増やす(加えられるクライスは、ブルグント、オーバーザクセン、クールライン、オーストリア)
- 指揮官は臨時職とし、必要に応じてクライスに属す帝国等族が任命する。帝国等族の意見が不一致の場合に限り国王がこれを任命すること
- 帝国指揮官は設けない
- クライスの機能は平和維持と刑の執行とし、防衛はこれから除外する
という修正案を提示した。マクシミリアンもこれに合意し、治安維持機構としての帝国クライスが成立した。しかし、この時点の帝国クライス制度は、指揮官の職責や権限について明確な規定が設けられておらず、制度としては不十分なものであった。実際、1515年にフランツ・フォン・ジッキンゲンが帝国追放に処せられた際、該当クライスであるオーバーライン・クライスは、刑の執行に全く非協力的な態度に終始した。 フェーデの抑止力としても無力で、刑の執行、平和維持のいずれの機能も十分に果たしていない状態であった。
対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件
編集1519年に皇帝に即位したカール5世は、1521年に帝国統治院を復活させ、帝国最高法院に新たな法的基盤を与えた。そうした上で、翌1522年にラントフリーデ令(クライス令)を発し、帝国統治院の執行機関としてクライスを位置づけた。クライスの指揮官を臨時職から恒常職とし、平和破壊活動の現行犯に対しては帝国レベルでの裁判を待つことなくクライスレベルで処遇を決定することを可とするなど、クライスの権限は大幅に増強されたが、その本体となる帝国統治院は早くも1524年には活動を停止し、1530年に廃止された。
ところが、1530年にアウクスブルク帝国議会で決議された対オスマン帝国軍の編成に際し、帝国等族の分担兵がクライス毎に編成され、クライスの定めた集合地に派遣され、クライス指揮官の指揮下に置かれた。この時点で、クライスは帝国統治院の執行機関であるのだが、本体である帝国統治院が機能していないにもかかわらず軍編成の基盤となっていることは、注目に値する。
ただし、この時、実際にクライス会議を開いたのは、バイエルン、シュヴァーベン、フランケン、オーバーラインの4つのクライスだけで、他は帝国等族間の宗教対立などによりクライス会議すら開けない状態にあった。また、オーバーライン・クライスではクライス会議は開催されたものの、有力な帝国等族であるヘッセン方伯フィリップ1世とシュトラスブルクが欠席し、結局、軍の徴集ができない事態に陥っていた。この時は、オスマン帝国との間に休戦条約が締結されたため、実際に派兵は行われなかった。
1532年、休戦条約失効に伴い新たな軍の編成が必要であり、まず7月に宗教問題は1532年以後最初の帝国議会で優先的に協議するという内容の「ニュルンベルクの和約」によって宗教対立を棚上げした後、7月15日にクライス会議を行い、8月に軍を集結することが決議された。前述のオーバーライン・クライスでも、今回は帝国議会の決議通り7月15日にクライス会議が開催され、軍の派遣が決議された。
このように、帝国クライスは定着したかに見えたが、これは帝国議会の命令下のことであって、地方の自主的な平和維持活動という本来の目的では未だにその機能を十分に果たしているとはいえない状態にあった。それは1534年に再洗礼派教徒がミュンスターを占拠した事件に示されている。1522年のラントフリーデ令に従えば、ミュンスターが属すヴェストファーレン・クライスに治安回復の権限および義務があるのだが、実際にはクライス単位での支援は行われず、近隣の帝国等族による援助提供が議論された。
しかしその援助規模では十分でないと判断したケルン選帝侯およびユーリヒ大公は、これをマインツでの選帝侯会議に諮った。この会議でようやく、ヴェストファーレン、クールライン、オーバーライン、オーバーザクセンの4クライス合同会議が決定され、開催されたのであるが、該当クライスの帝国等族187人中、出席したのは40人に過ぎなかった。あまりの出席率の悪さに、翌1535年4月に全10クライスの合同会議が招集されたが、これも出席率が悪く、さらに10月に再度行われた合同会議も同様の結果に終わった。1532年の対オスマン帝国軍招集と1534年のミュンスター占拠事件から、
- 平和破壊活動に対する援助提供は、まず近隣の帝国等族に期待され、それが不十分なときにだけ、選帝侯会議経由で帝国クライスの関与が議論されること
- 帝国クライスは積極的・自主的な意思決定能力を持たず、皇帝や有力な帝国等族に利用されている状態にあったこと
- 宗教対立で機能不全に陥っていた帝国議会の替わりに、帝国レベルの実務処理機関としての役割が期待されるようになっていたこと
が浮き彫りとなっている。
権限の拡充
編集1537年、対トルコ戦争への援助を取り付けたいローマ王フェルディナント1世は帝国クライス会議の開催を画策した。これは、帝国議会を開催した場合には、先の「ニュルンベルクの和約」の規定に従い、宗教問題を優先的に協議せねばならず、対トルコ戦援助協力を決議できなくなる可能性があることを考慮したものである。
これに対して、ヘッセン方伯フィリップは、対トルコ戦援助は帝国議会の管轄事項であって、帝国クライス会議での協議事項ではないと強く反発し、ヴォルムスで帝国クライス会議が開催された同じ日に、ラーデンベルクでプロテスタント諸侯を招集した会議を開催するという妨害活動を行っている。こうした宗教対立の中で開催されたヴォルムスでの帝国クライス会議では、帝国議会を早期開催することだけを決議して終了した。
これを承けてフェルディナントは、シュマルカルデン同盟に接近し、プロテスタント教徒の安全保障と引き替えに対トルコ戦への援助協力を取り付けた。帝国議会の替わりに帝国クライス会議を利用しようとする皇帝ではあったが、ここでもやはり宗派対立が大きな足枷となり、帝国クライスの体制整備は不十分な状態であった。
それでも、1542年に開催された帝国議会で、帝国一般直接税の徴収業務をクライスが行うこととなった。クライス毎に6人の収税官を設け、徴収した帝国一般直接税によりクライス軍の維持費をクライス毎に賄うことが定められた。
帝国クライスに対して抵抗姿勢を示す帝国等族の不満の一つは、クライスへの協力規模算定の基準となる帝国台帳の不正確さがあった。その見直しは、1541年の議会で諮られる議題となったのだが、対トルコ戦協力問題が優先された結果、棚上げとなっていた。強力な等族がおらず、中小規模の等族で構成されるオーバーライン・クライスは、その修正を特に強固に主張し、1544年、各クライスの代表者が招集され、その見直しのための会議が開催された。
ここに至りクライスは、皇帝や有力等族に利用される存在から、自らの財政基盤を持ち、帝国台帳の見直しという帝国レベルの問題に関する協議にその代表者が関わる自立的存在となっていったのである。
帝国執行令に向けて
編集1554年、クールライン、オーバーザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーラインの6つのクライスに対して、辺境伯戦争(いわゆる第二次辺境伯戦争)を引き起こしたブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスに対する帝国追放令の執行命令が出された。その遂行にあたり、8月に6クライスの合同会議が開かれることとなった。
これに最も積極的に取り組んだのがシュヴァーベン・クライスであった。その最大等族であるヴュルテンベルク公クリストフは、クライス会議に先立ち自ら執行案を作成し、クライス会議内に委員会を設け協議をさせた。その結果、16条からなる具申がまとめられ、6クライス合同会議に提出された。
ところが、クールライン・クライスは、この問題を全クライスで協議すべき問題であると主張し、審議にはいることを拒否した。そもそもクールライン・クライスは、事実上、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、プファルツ選帝侯の4人のライン選帝侯からなるクライスであり、他のクライスに対して優越性を主張していた。シュヴァーベン提案は、その伝統的な選帝侯の優位性を無視し、他のクライスとクールライン・クライスとを同列に扱っていたことが、その反発を招いたのであった。
こうして10月に改めて全クライスをフランクフルトに招集して開催された帝国クライス会議には、しかし、オーバーザクセン・クライスが欠席し、ニーダーザクセン、ニーダーラインの両クライスはクライスの委任を受けていない代理人を出席させただけであった。クールライン・クライス以外の出席した8クライスは、シュヴァーベン提案に基づき協議を行い、「フランクフルト草案」をまとめ上げた。一方、クールラインはこの帝国クライス会議を無効とし、この問題を帝国議会で検討することを主張した。残る8クライスはこれに反対し、この結果、翌1555年にアウクスブルクで帝国議会と帝国クライス会議を両方開催することとなった。そして皇帝カール5世の判断で、帝国議会で審議されることとなった。
1555年のアウクスブルクの帝国議会は2つの重要な決定を行った。「アウクスブルクの宗教和議」と呼ばれる宗教平和令と帝国執行令である。1552年のパッサウ条約に従い宗教平和令が先に審議された。審議方法には、三部会別方式が執られた。この方式はプロテスタントには有利に働き、アウクスブルクの宗教和議が成立したが、帝国執行令の審議にも同じ方法が適用された。三部会別方式は伝統的な選帝侯優位の審議方式であり、この結果、最終的なその内容は、叩き台となったフランクフルト草案に較べ、選帝侯優位に配慮したものに改編されていた。
帝国執行令で規定されたクライス制度
編集帝国執行令とは、アウクスブルク帝国議会最終決定の31条から103条の73箇条をいう。以下、( )内は条文の番号を示す。
平和破壊活動への対処
編集小規模の平和破壊活動への対処
編集帝国執行令では、平和破壊活動の危険因子として、特に傭兵への注意を喚起している。条文の中には、傭兵に対し宿や飲食の提供を禁じる項目(38条)があり、また、主を持たない騎兵や歩兵は帝国内に滞在してはならないとの規定(39条)もある。ただし、これらの兵力が糾合することを阻止する任務は、第一に帝国等族にあるとし、初期段階ではクライスの問題とする以前に等族がまず処置を行うことを求めている(40条、50条)。
その上で、これが不可能な場合に初めて所属クライスの長官・補佐官に援助を要請するよう定めている(51条)。クライス単位での援助が必要となった場合、当該クライスの長官・補佐官は、これを皇帝に文書で速やかに報告する(64条)。長官・補佐官の要請があった場合、等族は無条件にそれに応じなければならない(80条)。クライス等族は各自の評価額に基づき1単位分の騎兵・歩兵を派遣する(88条)。援助規模は帝国台帳に基づいて算出する(83条)。クライス等族は評価額に応じて定められた以上の援助を行う義務はない(80条)。最後の条項は、長官・補佐官の権限が突出しないように制限を設けたものである。
近隣クライスの協力
編集要請を受けた長官・補佐官が自らのクライス単独で対処することが困難であると判断した場合には最も近い2つのクライスに援助を要請できる(62条)。3つのクライスでも対処が困難である場合、3つのクライスから最も近い2つのクライスに援助を要請できる(63条)。いずれの場合も、援助を要請されたクライスは、これを拒むことなく、援助に関する協議に応じなければならず(62条、63条)、皇帝への報告が義務づけられる(64条)。この場合、遠征あるいは作業に要した全費用は帝国クライス全体で負担する(89条)。
さらに大規模な破壊活動への対処
編集5つのクライスでも対処が困難なほど大規模な破壊活動の場合、5つのクライスの長官・補佐官は、帝国大書記長マインツ大司教(選帝侯でもある)に文書で連絡する。マインツ大司教は、全選帝侯およびオーストリア大公、ヴュルツブルク司教、ミュンスター司教、バイエルン大公、ユーリヒ大公、ヘッセン方伯、ヴァインガルテン・オックハウゼン修道院長、フュステンベルク伯、ニュルンベルク市、ケルン市をフランクフルトに招集する(帝国代表者会議)。さらにマインツ大司教は、5つのクライスの長官・補佐官の報告および招集した会議について皇帝(不在の場合はローマ王)に報告する。
招集を受けた上記の帝国等族は本人または全権委任者を、皇帝は委任官を会議に派遣し、対応を協議する(65条)。会議に参加した帝国等族(またはその代理)は会議結果を具申としてとりまとめ皇帝の委任官と意見調整する。他の5つのクライスに援助を要請することが決した場合、要請を受けたクライスはただちにそれに応じる義務がある(66条)。援助要請が、5つ以上だが全クライスにまで及ばなかった場合は、出費の半分を帝国クライス全体で負担する(92条)。会議で全10クライスの兵力でも対応ができないと結論された場合、この事態を皇帝およびローマ王に報告する。皇帝およびローマ王は選帝侯の同意を得た上で帝国議会を直ちに招集する(67条)。
この部分は、フランクフルト草案から帝国執行令で大きく変更された場合で、大規模な破壊活動に対する対処では、選帝侯であるマインツ大司教に対策会議の招集権があること、皇帝は委任官を送ることしか権限を持たず、帝国議会の開催も選帝侯の同意が必要であることなど、選帝侯の権限の大きさに対して皇帝のそれがきわめて小さく抑えられている点が特徴である。
クライスの組織
編集クライスの組織として、長官(Oberst)、補佐官(Zugeordnete)、公示事項担当諸侯(Kreisausschreibenamt)が登場する。
長官・補佐官
編集各クライス1名が等族により長官に選出される。長官は、必要に応じて数名の補佐官を任命できる(56条)。長官が1人で職務を遂行できない場合は、代理を任命することができる(58条)。長官自らが平和破壊活動を行った場合あるいは職務不履行の場合は補佐官のうちの一人が長官の代わりに事態収拾にあたる(77条)。長官の免職・改選の権利はクライス等族が有する(74条)。これらの条文から明らかなように、帝国執行令では、クライス長官の任命・罷免権は完全にクライス等族が有していた。長官の報酬については、公示事項担当諸侯が長官となった場合は無報酬とすべきである(56条)。補佐官については、帝国等族以外から選出された場合には報酬を受け取るべきである(57条)と記されている。
長官はクライス内の平和破壊活動への対応を補佐官と協議してクライス等族に援助の詳細を通知する(60条)。長官・補佐官は、まだ攻撃が生じていないが、将来危機となる様な事態に対しても対処すべきである(70条)。長官・補佐官は帝国追放令の執行を行う(71条)。これらの条文から、長官・補佐官は将来起こりうる危機に対して予め対処することが可能な強い権限を持っていたことがわかる。ただし、73条では他の等族に対する優越性を不当に用いてはならないとも戒めている。
公示事項担当諸侯
編集公示事項担当諸侯の具体的な権限については帝国執行令では何も記されていない。実際にその任務は、皇帝や帝国議会とクライスの連絡を司り、クライス会議の招集権も公示事項担当諸侯が有していたと考えられている。クライスの中心的役割を担うポストであり、たとえば、シュヴァーベン・クライスではヴュルテンベルク公とコンスタンツ司教が世襲するといった具合に、常に有力な等族に与えられていた。また、公示事項担当諸侯と長官は同一人物であることが多かった。その上、1654年には長官に与えられていた権限が公示事項担当諸侯に与えられてもいる。
クライスにおける会議
編集クライス会議(Kreistag)は、公示事項担当諸侯が招集権を有するクライスの決議機関で全等族が参加し、身分毎の部会に分かれ協議を行った。部会の編成は、クライス毎に異なっていた。評決は各等族が一人一票と投じた。一方、クライス軍事評議会(Kreiskriegsratstag)は、有事の際にクライス軍の招集や他のクライスへの援助要請を協議する目的でクライス長官が招集した長官および補佐官の会議である。また、鋳貨問題制度整備のための鋳貨問題審議会(Münzprobationstag)が、各クライスで年に2回開催されることになっていた。
帝国執行令以後の変遷
編集グルムバッハ事件
編集1563年、ヴュルツブルク司教と所領問題をめぐり対立したヴィルヘルム・フォン・グルムバッハがヴュルツブルクを奇襲し、占拠した。これに対して皇帝フェルディナンド1世はグルムバッハに帝国追放令を発した。しかし、これを承けたフランケン・クライスは、2人の公示事項担当諸侯であるバンベルク司教とブランデンブルク辺境伯との意見調整が付かず、具体的な行動を起こすことができなかった。また、隣のシュヴァーベン・クライスでは1564年1月にクライス軍事評議会を開催したが、この時にはすでに皇帝からマインツ大司教を経由して帝国代表者会議が招集されており、軍事評議会を義務づけた帝国執行令の機動力が問題となった。ただし、帝国執行令に従えば、帝国代表者会議の開催要請はフランケン・クライスの長官・補佐官からマインツ大司教になされるべきであり、厳密には違法行為であった。皇帝がこの問題に積極的に介入したのには、この機会にクライスに対する皇帝の発言権を強化しようと言う狙いがあった。この会議では、
- 緊急時には長官の独断でクライス等族に援助要請ができる
- 援助の上限を評価額に基づき2単位分に引き上げる
- 帝国等族全体の負担で1500の騎兵を皇帝が任用する。ただしこれはグルムバッハ事件対応のための緊急措置であり、期間は9か月間とする
- 新たに兵を募る時にはクライス長官に届け出ること
といった改訂を行った。皇帝は3については常備軍を、4については皇帝への届け出を、さらには帝国代表者会議を皇帝が招集できるような改革を望んでいたがかなわず、むしろクライス長官の権限を強化する結果となったのである。
グルムバッハの降伏を承けて開催された1566年の帝国議会では、改めてグルムバッハの帝国追放が確認され、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、フランケン、ヴェストファーレンの4クライスと先に認められた皇帝麾下の騎兵がその執行にあたると定めた。その上で、
- 平和破壊活動にさらされているクライスが機能していない場合、隣接するクライスの長官は、当該クライスからの援助要請なしに事件に対処することができること
- 援助の上限を評価額に基づき3単位分に引き上げること
と、クライス長官の権限をさらに拡大している。
関税問題
編集1564年、プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガングは、自領を通過しニュルンベルクとアウクスブルクを結ぶ通商路の関税を突然3倍に引き上げた。この関税引き上げは1566年には皇帝の認可も得ていた。これにより、この流通路の経済圏は、流通が滞り、深刻な経済的打撃を受けた。基本的に貴族と兵士と農民からなる諸侯領に較べ、商工業を中心とする帝国都市で、その打撃は大きなものであった。とはいえ、帝国都市単独では有力諸侯のプファルツ=ノイブルク公には対抗し得えなかった。そこで、この関税引き上げがラント平和を乱すものであり、帝国クライスの担当問題であるとし、帝国クライスに諮ることとした。
初め諸侯はこれをラント平和の妨害行為であるとすることに難色を示したが、帝国都市の熱心で粘り強い説得により、これをクライスの問題として採り上げるに至った。しかし、帝国クライスは、独自の裁判権を持たず、帝国等族領内の内政に干渉することはできなかったため、通商路沿線の帝国クライス、すなわち、ニュルンベルクが属すフランケン・クライス、アウクスブルクが属すシュヴァーベン・クライス、プファルツ=ノイブルク公が属すバイエルン・クライスは、1566年4月に共同で、この関税引き上げが不当であると皇帝および選帝侯に訴え出た[注釈 4]。これにより、帝国クライスは、治安維持の範囲を超え、政治的にラント平和維持に関わることとなった。
3クライスは1567年2月以降、頻繁に合同クライス会議を重ね、皇帝・選帝侯と粘り強く交渉を続けた。その結果、1571年4月に皇帝からプファルツ=ノイブルク公の新関税に関する文書作成に過ちがあった旨の文書(シュヴァーベン・クライス宛)を引き出し、1576年のレーゲンスブルク帝国議会において不当な関税特権の乱用に対する警告が発せられた。こうして、クライス会議は徐々に帝国行政に関与していくようになった。
1570年シュパイアー帝国議会
編集1568年、ユグノー戦争の一時終結により、解雇された大量の傭兵がフランスからドイツ南西部に流れ込むことが予想された。シュヴァーベン・クライスは、この事態への対応を皇帝およびクールライン・クライスと諮り、帝国代表者会議を開催し協議することとした。また、帝国北西部では、オラニエ公ウィレム1世とアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの間で戦闘が始まった(八十年戦争)。ヴェストファーレン・クライスは、この事態に対し近隣クライスに援助要請を行ったが、防衛機能を与えられていない帝国クライスにアルバ公への対処が可能であるかという点が問題となり、やはり帝国代表者会議で諮ることとなった。
こうして開催された1569年の帝国代表者会議では、フランスからの傭兵への対処として総司令官を設け、皇帝マクシミリアン2世がその任にあたった。クールライン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーラインの5クライスに兵力提供を、残りの5クライスに資金提供を求めた。こうして皇帝は、期限付きの緊急措置としてではあったが、帝国クライスを自らの管理下に置くことに成功した。その後、フランスで再び内戦が始まり、傭兵による暴力行為の危機は去ったとして、この決定は実行されなかった。一方、対アルバ公問題については結論が得られず、総司令官設置問題とも併せて1570年のシュパイアー帝国議会で協議することとなった。
1570年の帝国議会では、以下の決議がなされた。
- 募兵の際は、皇帝およびクライス長官に届け出、保証金を支払うこと。
- 皇帝は、平和破壊活動に対して3つのクライスに援助要請ができること。
- 皇帝は、マインツ選帝侯に帝国代表者会議の開催を要請できること。
- 帝国代表者会議のメンバーを4名増員し、各クライスから少なくとも1名は参加すること。
マクシミリアン2世は、前年の緊急措置を永続的なものにしようと画策したが、その目論見は成功しなかった。しかし、1555年の帝国執行令に較べ、皇帝の帝国クライスへの介入は拡大していった。なお、総司令官についての規定は盛り込まれなかった。
対トルコ戦争
編集1580年代にはトルコ戦争が激化し、戦費が逼迫したことから、皇帝ルドルフ2世は帝国等族に使節を派遣し、個別に資金調達を試みた。ザクセン選帝侯は、この援助要請をオーバーザクセン・クライスのクライス会議にかけた。また、ニーダーザクセン・クライスもクライス会議で戦費の提供に応じることとした。この頃、皇帝の側近であったヒュルゼンやザルツブルク大司教ディートリヒは、それぞれ異なる見地からではあったが、対外戦争に対し、帝国クライス会議を利用することを提言したが、いずれも実現はしなかった。
しかし、決定に時間がかかる帝国議会を避け、諸問題を帝国代表者会議や帝国クライス会議に移管する動きが現実にあり、同時に帝国クライスが対外戦争にも関与すべきだという風潮は確実に熟成されつつあった。1594年の帝国会議で、帝国議会では対トルコ戦争援助問題のみを議題とし、これ以外の議論を帝国代表者会議に移管することが決した[注釈 5]。また、この帝国議会で決した対トルコ戦援助の一部について各クライスに提供要請がなされたが、対外戦争は管轄外とした帝国執行令を根拠に異を唱えた者はなく、バイエルン、フランケン、シュヴァーベン・クライスは合同会議を開催し、実際の援助提供を決議している。
1598年にはこれにニーダーザクセン、オーバーザクセンを加えた5クライスで合同会議を開き、危機的状況になった場合にはという条件付きでさらなる予備軍の派遣を決した。その上で、実際に派遣する際には帝国執行令に沿って、対トルコ戦争援助問題を協議することを取り決めた。ついに、対外戦争についても、その法的根拠の整備を行う方針が言明されたのである。
三十年戦争およびそれ以後
編集三十年戦争では、カトリック・プロテスタントが混在する状況にある帝国クライスは、クライス内の平和を最優先に掲げ、中立を保とうとした。そしてこの試みは、三十年戦争の中頃までは有効であった。しかし、スウェーデンが参戦し、その圧力を強め始めたことで状況は変わっていった。1631年、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世は新教派等族を集めたライプツィヒ同盟を結成し、スウェーデンにも皇帝にも荷担せず中立を保つことを宣言するとともに同盟軍を組織した。この同盟軍はシュヴァーベン、フランケン、オーバーザクセン、ニーダーザクセンの各クライスから帝国執行令に従うかたちで徴兵された。
しかし、カトリック教徒同盟軍がザクセン選帝侯領を侵攻し、選帝侯がスウェーデン軍を頼った時点で中立は破綻した。また、バイエルン・クライスは自衛のためのクライス軍を組織したが、1632年にはスウェーデンのミュンヘン侵攻を許してしまった。リュッツェンの戦いでのスウェーデンの勝利を承けて南ドイツ4クライス(フランケン、シュヴァーベン、オーバーライン、クールライン)のプロテスタントの帝国等族は、1634年にスウェーデンとハイルブロン同盟を締結した。ここでも兵の提供は帝国執行令に従って行われた。ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍が敗れたことでこの同盟は解消された。
一方、1637年に皇帝が膨大な軍税を徴収しようと企て、これに対抗するためにケルン選帝侯フェルディナントを中心にクライスが共同戦線を張って中立を保とうという動きがあった。1648年のヴェストファーレン条約および1654年の帝国最終決定[注釈 6]は、1555年の帝国執行令を再確認したに過ぎず、内容に新規性はみられなかった。しかし、1663年以降、帝国議会が単なる情報交換の場と堕し「永久帝国議会」と揶揄を含んで呼ばれるようになったのに替わって、クライス単独でラントの、あるいは合同クライス会議を介して広域の、さらには帝国全体の行政運営の実体を、帝国代表者会議と並んで担うようになっていった。
ルイ14世の治世(1643年 - 1715年)は、フランスからの圧力が強まり、地理的に近い帝国クライス、すなわちヴェストファーレン、オーバーライン、クールライン、シュヴァーベン、フランケンといったクライスに対外防衛力としての結束を強化する必要性を自覚させた。1651年以降これら、西部・南部のクライス間で防衛同盟を形成する動きが見られた。1680年代から1690年代に多くの同盟が結ばれ、1697年には上記5クライスにバイエルン・クライスを加えた6つのクライス間で永続的な連合が結成された。しかし、スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)でバイエルン選帝侯国がフランスと同盟するなど、その求心力は低下していった。帝国クライス制度は、それでも1801年までは集団防衛力を維持したが、ブランデンブルク=プロイセンの巨大化やナポレオン戦争に対応できず、その役割を終えた。
各クライスの成員一覧
編集バイエルン・クライス
編集バイエルン公を中心としたクライス。
聖界部会 | 俗界部会 |
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シュヴァーベン・クライス
編集多くの小等族から構成されているが、最大等族であるヴュルテンベルク公を中心によく組織されたクライスであり、帝国執行令の原型となったシュヴァーベン提案をとりまとめた。
聖界諸侯部会 | 俗界諸侯部会 | |
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高位聖職者部会 | ||
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伯部会 | ||
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帝国都市部会 | ||
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オーバーライン・クライス
編集数多くの中小等族で構成されており、クライス内に深刻な宗教対立を抱えていたため、しばしば機能不全に陥った。
聖界諸侯部会 | 俗界諸侯部会 | |
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伯部会 | 帝国都市部会 | |
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ヴェストファーレン・クライス
編集ニーダーライン=ヴァストファーレン・クライスが本来の名。フランスに近く、その圧力を受け易いという地理的条件から、求心力となる有力諸侯がいないにもかかわらず比較的結束力が強いクライスであった。
聖界諸侯部会 | 俗界諸侯部会 | 高位聖職者部会 |
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伯部会 | 帝国都市部会 | |
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フランケン・クライス
編集シュヴァーベン・クライスと並びよく組織された帝国クライスであり、帝国末期まで機能した。
聖界諸侯部会 | 俗界諸侯部会 |
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伯部会 | 帝国都市部会 |
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ニーダーザクセン・クライス
編集聖界諸侯部会 | 俗界諸侯部会 | ||
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ブルグント・クライス
編集1512年に新たに設けられた4つの帝国クライスの一つ。1556年にその一部(ネーデルラント17州)がスペイン領となり、神聖ローマ帝国を離れたため、クライスとしての実体を持たなかった。
- ブルグント公
- ブレダ家(ナッサウ=ブレダ家、1538年からナッサウ=オラニエン家)
- ホールン伯
- エグモント伯およびトゥルネー伯
- ベルー家
オーストリア・クライス
編集ハプスブルク家の相続領からなる名目だけのクライスであって、クライス会議が開催されたことすらない。
- ハプスブルク家相続領
- エスターライヒ・ウンター・デア・エンス大公
- エスターライヒ・オプ・デア・エンス大公
- シュタイアーマルク公
- ケルンテン公
- ゲルツ伯
- クライン公
- トリエステ市
- チロル伯
- ブリクセン司教
- クール司教
- トリエント司教
- ドイツ騎士団オーストリア管区
- ドイツ騎士団アン・デア・エッチュ管区
- タラスプ家(ディートリヒシュタイン家を含む)
オーバーザクセン・クライス
編集ブランデンブルク選帝侯、ザクセン選帝侯を中心に、その影響下にある等族を含め、1512年に新たに設けられた4クライスの一つである。
- アンハルト侯領
- バルビー伯(1659年からザクセン選帝侯領)
- ブランデンブルク選帝侯
- カミン侯領(1648年からブランデンブルク選帝侯領)
- ゲルンローデ修道院(アンハルト侯領)
- ハッツフェルト侯領
- ホーンシュタイン伯
- ローラ家およびクレッテンベルク家
- マンスフェルト伯(ブランデンブルクおよびザクセン選帝侯領へ)
- ヒンターポンメルン公(プロイセン)(1648年からブランデンブルク侯領)
- フォアポンメルン公(スウェーデン)(1648年からスウェーデン領)
- クヴェートリンブルク修道院
- ザクセン=ヴァイセンフェルト=クヴェールフルト公(1746年からザクセン選帝侯領)
- ロイス伯
- ザクセン選帝侯
- ザクセン=アルテンブルク公
- ザクセン=コーブルク公
- ザクセン=コーブルク=アイゼナハ公
- ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公
- ザクセン=アイゼンベルク公
- ザクセン=アイゼナハ公
- ザクセン=ゴータ公
- ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公
- ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公
- ザクセン=イェーナ公
- ザクセン=マイニンゲン公
- ザクセン=レムヒルト公
- ザクセン=ザールフェルト公
- ザクセン=ヴァイマル公
- シェーンブルク伯
- シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯領
- シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯領
- シュトルベルク伯(1738年からザクセン選帝侯領)
- ヴェルニゲローデ伯(1714年からブランデンブルク領)
- ヴァルケンリート修道院(1648年からブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領)
クールライン・クライス
編集事実上、ライン4選帝侯からなる帝国クライスで、他の等族はほとんど発言力を持たなかった。
脚注
編集注釈
編集- ^ 帝国レーエンを得ているもので、聖俗諸侯のほかに伯、帝国都市、有力聖職者(修道院長など)を含む。
- ^ ただし、帝国騎士領、スイス同盟領、イタリア、イェーバー、ディトマルシェン農民共和国、ボヘミア王国およびこれに附属する地方であるシュレージエン、ラウジッツ、モラヴィアは除く。
- ^ 1512年以前は、選帝侯領やハプスブルク家の相続領が除かれており、6つであった。
- ^ 1564年にまずはフランケン・クライスが単独で「クライス会議の名において」関税撤廃をプファルツ・ノイブルク公に申し入れている。
- ^ 実際に1597年の帝国議会では、反宗教革命により宗教対立が激化していたにもかかわらず、これについての議論はなされず、トルコ戦争援助問題だけが議題に上がった。
- ^ いわゆる「最後の帝国最終決定」である。
出典
編集関連項目
編集参考文献
編集- 山本文彦『近世ドイツ国制史研究 皇帝・帝国クライス・諸侯』北海道大学図書刊行会、1995年、ISBN 4832957317
- 渋谷聡『近世ドイツ帝国国制史研究 等族制集会と帝国クライス』ミネルヴァ書房、2000年、ISBN 4623031896
- ピーター・H・ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495-1806』山本文彦訳、岩波書店、2005年、ISBN 4000270974
外部リンク
編集- Wikisource "Hernach volgend die zehen Krayß" - ドイツ語。各クライスの成員一覧はこの記事(11:57, 9. Aug. 2007版)による。