巽聖歌
巽 聖歌(たつみ せいか、1905年(明治38年)2月12日[1] - 1973年(昭和48年)4月24日[1])は、日本の児童文学者、歌人。本名は野村 七藏(のむら しちぞう)[1]。童謡「たきび」の作詞者として知られる。
巽聖歌 | |
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誕生 |
1905年2月12日 岩手県紫波郡日詰町(現紫波町) |
死没 |
1973年4月24日 東京都日野市 |
職業 | 童謡作家、詩人、歌人、編集者 |
国籍 | 日本 |
文学活動 | 赤い鳥、多磨 |
代表作 | 水口、たきび、雪と驢馬、春の神さま |
主な受賞歴 | 日本文化協会第2回児童文化賞(1941年) |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
北原白秋に師事し、佐藤義美、与田凖一と並び称された。また新美南吉を世に送り出すことに尽力した。『赤い鳥』出身の童謡詩人・『多磨』出身の歌人として、童謡・少年詩・近代短歌の歴史の上に業績を残した。
短歌においては、持田勝穂、木俣修、宮柊二、玉城徹の同門に当たり、白秋の没後、玉城徹を指導した。また、出身地である岩手県紫波町立日詰小学校の校歌をはじめ、全国的に多くの校歌の作詞をしている。
生涯
編集1905年(明治38年)2月12日、岩手県紫波郡日詰町(現在の紫波町)に生まれる[1]。生家は鍛冶屋で7人兄弟の末っ子であった[1]。
1917年(大正6年)に日詰尋常小学校卒業[1]。進学はせず、父の死後に長兄が継いだ家業の鍛冶屋を手伝う[1]。14歳の頃、鈴木三重吉の創刊した『赤い鳥』を見て童謡・童話に興味を持ち、創作を始める。
16歳から日本基督教会日詰教会に通い、20歳で洗礼を受け、プロテスタントのクリスチャンとなる。ペンネーム「聖歌」の由来もキリスト教による。なお讃美歌318番「主よ、主のみまえに」は、巽聖歌の作詞である[2]。
1923年(大正12年)1月、自作の童話「山羊と善兵衛さんの死」を、児童総合雑誌『少年』の編集長であった童話作家の安倍季雄に送り、同誌を刊行していた時事新報社への就職を依頼する[1]。聖歌の才能を安倍季雄も認めていたが、18歳と年齢が若すぎることを理由に入社保留となる。同3月、横須賀に住んでいた同郷の友人を頼り、故郷の日詰町を離れる。横須賀海軍工廠で働きながら[1]『赤い鳥』や千葉省三の創刊した『童話』誌に投稿を続け、『赤い鳥』大正13年4月号に「田村とほる」のペンネームで「母はとっとと」が初掲載される。
1924年(大正13年)5月、時事新報社に入社を許される[1]。雑誌『少年』『少女』の編集者として仕事を始め、同誌に作品を発表するようになる。だが同年12月、時事新報社は業績不振のため『少年』『少女』誌の刊行から撤退することになり、翌1925年(大正14年)3月、わずか1年足らずで徴兵検査を理由に同社を退社し[1]、失意のうちに日詰町へ帰郷する。この時期から「巽聖歌」のペンネームを用いる[1]。同年の夏に書いた童謡「水口(みなくち)」が『赤い鳥』大正14年10月号に掲載され[1]、北原白秋に絶賛される[1]。これが縁で白秋門下となり『赤い鳥』の常連投稿者となる。
1927年(昭和2年)、郷里の日詰教会の牧師とともに、アメリカ人の家庭教師として福岡県久留米市の教会へ赴任する。
1928年(昭和3年)、白秋の勧めにより再度上京。同年8月、白秋門下で『赤い鳥』同人の与田準一らと「赤い鳥童謡会」を結成する。翌1929年(昭和4年)3月、白秋の弟・北原鉄雄が設立した出版社「アルス」に入社。
1930年(昭和5年)、与田準一らと童謡・童話雑誌『乳樹』(後『チチノキ』に改題)を創刊する[1]。翌1931年(昭和6年)9月、『チチノキ』へ作品を投稿してきた新美南吉と知り合う[1]。同年12月、南吉が上京、聖歌と会う。
1932年(昭和7年)、東京都中野区上高田の下宿で、新美南吉と同居を始める。同年9月、洋画家の野村千春(旧姓・武居)と結婚。長男の名前「圦彦(いりひこ)」、長女の名前「やよひ」は北原白秋の命名[3]。教育学者の周郷博は義弟(義妹の夫)。
1935年(昭和10年)3月、経済的理由により『チチノキ』が19号で終刊。白秋が主催しアルスから刊行された短歌雑誌『多磨』の同人となる。児童文学者としての白秋の側近であったが、短歌を本格的に始めるのはこの『多磨』創刊以降である。
1941年(昭和16年)、JOAK(現・NHK)のラジオ番組の依頼により、当時住んでいた中野区上高田の風景を舞台に、童謡「たきび」を作詞する(詳細は「たきび」の項を参照)[1]。同年、第2回児童文化賞受賞。
1942年(昭和17年)、新美南吉の童話集『おぢいさんのランプ』の出版を世話する。翌1943年(昭和18年)2月、病床の南吉より未発表作品を託され、死後の出版を依頼される。南吉の郷里である愛知県知多郡半田町(現・半田市)へ行き看病する。同年3月22日、南吉死去。翌4月に自宅で葬儀が行われ、与田準一とともに参列する。
1944年(昭和19年)、家族を連れて岩手県岩手郡沼宮内町(現・岩手町沼宮内)愛宕へ疎開。翌1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎える。翌1921年(昭和21年)設立された岩手児童文化協会の事務局長に就任する。
1948年(昭和23年)7月、岩手児童文化協会の事務所が火災で焼失する。同年10月に再度上京し、東京都南多摩郡日野町東大助(現・日野市旭が丘)に居を定める。以来、1973年(昭和48年)に68歳で死去するまで、25年間にわたり日野市旭が丘で暮らすことになる。1960年(昭和35年)『新美南吉童話全集』全3巻を刊行し[1]、翌年産経児童出版文化賞を受賞[1]。1971年(昭和46年)、赤い鳥文学賞選考委員となる。翌1972年(昭和47年)、日本児童文学者協会名誉会員となる。
1973年(昭和48年)4月24日、心不全のため[1]日野市立病院にて68歳で死去。八王子市中野山王2丁目11-11の喜福寺に墓がある。
1978年(昭和53年)、紫波町の名誉町民となる。第8回日本童謡賞特別賞。
1998年(平成10年)、日野市旭が丘にあった聖歌の旧居宅が取り壊される。
作品リスト
編集- 「水口(みなくち)」
- 「たきび」
- 「海は呼んでいる」
- 「おそらはあおく」
- 「かぜにおうちが」
- 「つばめのゆうびんやさん」
- 「夜明けの星」
- 「あさがおすった」
- 「ひろばのうた」
- 「ミツバチさんでも」
- 「朝の歌」
- 「キャベツのお山」
- 「りんごとみかん」
- 「うんどうかいのうた」
- 「ぼくは技師」
- 「せみを鳴かせて」
- 「流れゆくもの」
- 「アンデルセンを讃える歌」
- 「風」
- 「校庭の木々は」
- 「コロポックル」
- 「地下鉄工事」
- 「月よのがん」
- 「とりいれ」
- 「ぬげよ上衣を」
- 「野ぜり」
- 「冬の夜」
- 「蜜柑」
校歌
編集- 世田谷区立用賀小学校(東京都世田谷区)
- 日野市立第四小学校(東京都日野市)
- 日野市立七生中学校(東京都日野市)
- 八王子市立第四小学校(東京都八王子市)
- 仙台市立上杉山中学校(宮城県仙台市)
- 登米市立佐沼中学校(宮城県登米市)
- 春日部市立粕壁小学校(埼玉県春日部市)
- 刈谷市立刈谷南中学校(愛知県刈谷市)
- 東広島市立高屋西小学校(広島県東広島市)
- 名古屋市立亀島小学校(愛知県名古屋市)
- 岩手町立沼宮内中学校(岩手県岩手町)
- 紫波町立日詰小学校(岩手県紫波郡)
- 紫波町立紫波第一中学校(岩手県紫波郡)
- 奥州市立羽田小学校(岩手県奥州市)
- 奥州市立水沢南小学校(岩手県奥州市)
- 奥州市立江刺第一中学校(岩手県奥州市)
- 奥州市立南都田中学校(岩手県奥州市)=閉校
参考文献
編集- 『巽聖歌作品集』上下巻 巽聖歌作品集刊行委員会 1977年
- 内城弘隆『ふるさとは子供の心 巽聖歌の詩と生涯』(CD付)どっこ舎/ツーワンライフ 2008年1月 ISBN 978-4924981591
- 川原井泰江 編『巽聖歌童謡曲集―「たきび」70周年記念』盛岡出版コミュニティー 2011年10月 ISBN 978-4904870204
- 中野区ゆかりの著作者紹介 第10回 巽聖歌と新美南吉 友情と名作を育んだ上高田 中野区立図書館(PDF)
- 日野の歴史と民俗138(詳細版)「童謡たきび」誕生70年 日野市郷土資料館(PDF)
- 「たきび」の詩人巽聖歌【たつみせいか】生誕100年 ひの史跡・歴史データベース 日野の歴史と民俗 Vol.87 特定非営利活動法人サイバー日野(アーカイブ)
- 「たきび」の詩人巽聖歌 生誕100年-1[リンク切れ]
- 「たきび」の詩人巽聖歌 生誕100年-2[リンク切れ]
- 「たきび」の詩人巽聖歌 生誕100年-3[リンク切れ]
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 巽聖歌 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分) どっこ舎公式サイト
- 名誉町民 紫波町公式サイト
- 巽聖歌童謡まつり 紫波町観光交流協会
- 東京都日野市と姉妹都市になりました 紫波町公式サイト
- 姉妹都市・岩手県紫波町 日野市公式サイト
- “[1.omote.pdf 豊田駅の発車メロディが童謡「たきび」へ!!(表)]” (PDF). 日野市観光協会 (2010年1月23日). 2017年12月16日閲覧。
- “[1.ura.pdf 豊田駅の発車メロディが童謡「たきび」へ!!(裏) 巽聖歌の足跡を辿る]” (PDF). 日野市観光協会 (2010年1月23日). 2017年12月16日閲覧。