川上俊彦
川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺事件に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。
経歴
編集村上藩士・川上泉太郎の長男として越後国村上(現在の新潟県村上市)で生まれる。幼名は銀太郎[1]。
新潟師範学校を中退し東京外国語学校ロシア語学科に入学。1884年に卒業後、外務省に入省[2]。1900年、ウラジオストックの貿易事務官となり、日露戦争開戦時には残留邦人の救出に尽力した[3][4]。1904年(明治37年)9月、外交顧問として遼東守備軍司令部付となり、次いで満洲軍総司令部付となる[3]。1905年(明治38年)1月5日、水師営で行われた第3軍司令官乃木希典と旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリの会見では通訳を務めた[5]。1906年(明治39年)に再びウラジオストクの貿易事務官を務めた[6]後、1907年(明治40年)、ハルビン総領事となる。1909年(明治42年)10月26日にハルビン駅で発生した伊藤博文暗殺事件では、随員だった川上も巻き込まれ、流れ弾が命中し負傷した[7][3]。
1913年(大正2年)12月から南満州鉄道理事を務める[8]。1917年(大正6年)に外務省臨時調査部嘱託としてロシア出張を命じられる[9]。1920年(大正9年)11月、初代駐ポーランド公使となり同国と通商航海条約を締結[1]。1923年(大正12年)に帰国後、東京市長後藤新平が招へいしたソ連駐華全権公使アドリフ・ヨッフェと日ソ国交樹立に向けた非公式予備交渉を行う[10]。次いで1925年(大正14年)の日ソ基本条約締結後、北樺太利権交渉団の顧問となった[11]。
1926年(大正15年)8月16日、北樺太鉱業会長に就任[12]。ついで1929年(昭和4年)から日魯漁業社長を務める[1]。1935年、鎌倉の別邸で死去[2]。墓地は多磨霊園にある[1]。
家族
編集栄典
編集- 位階
- 勲章
脚注
編集- ^ a b c d 国史大辞典.
- ^ a b 松本郁子 2008, p. 52.
- ^ a b c 松村正義 2010, p. 119.
- ^ ゾーヤ・モルグン 2016, pp. 100–109.
- ^ 橋川文三 編『日本の百年4 明治の栄光』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2007年、183-185頁。ISBN 978-4-480-09074-4。
- ^ ゾーヤ・モルグン 2016, p. 118.
- ^ 川上俊彦 著「ハルビン遭難時の回顧」、国民新聞編輯局 編 編『伊藤博文公』啓成社、1930年、47-56頁。NDLJP:1170329。
- ^ 『官報』第426号、「授爵及辞令」 1913年12月27日。NDLJP:2952526
- ^ (40.)本省嘱託川上俊彦及宮川外務属露国出張ノ件 大正六年六月国立公文書館
- ^ 村上隆『北樺太コンセッション』北海道大学図書出版会、2004年、93-97頁。ISBN 4-8329-6471-2。
- ^ 村上隆 2004, p. 105.
- ^ 創立総会開く、会長に川上俊彦『中外商業新報』大正15年8月17日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p115 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “川上俊彦関係文書”. 国立国会図書館. 2016年7月11日閲覧。
- ^ 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』竹山淳平
- ^ 『官報』第8702号「叙任及辞令」1912年6月22日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
参考文献
編集- 『国史大辞典』 3巻、吉川弘文館、1983年、698頁。ISBN 4-642-00503-X。
- 松村正義「川上俊彦」(pdf)『外交』第3巻、外務省、2010年11月。
- 松本郁子「組織における人間の自由-川上俊彦研究序説」『京都大学大学院人間・環境学研究科『人環フォーラム』 第22号』第22巻、2008年、52頁、CRID 1010000782435405188、hdl:2433/141986。
- ゾーヤ・モルグン 著、藤本和貴夫 訳『ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年』東京堂出版、2016年。ISBN 978-4-490-20942-6。