島津成久
島津 成久(しまづ しげひさ、寛正5年1月15日(1464年2月22日) - 天文5年(1536年))は、薩摩国の戦国時代の武将。
生誕 | 寛正5年9月15日(1464年10月24日)[1] |
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死没 | 天文5年3月4日(1536年4月4日) |
改名 | 菊千代丸(幼名)→重久→成久 |
別名 | 三郎太郎、薩摩守 |
戒名 | 天倫西賢 |
氏族 | 島津薩州家 |
父母 | 島津国久 |
兄弟 | 成久、忠貞、大野忠綱、吉利秀久、為心(住職)、娘、寺山光久[2] |
妻 | 島津忠廉の長女 |
子 | 菱刈重副室、佐多氏某室、御東(寛庭夫人)、忠興、雪慶院、筑前守、上之城(島津実久室)、西川興久、寺山光久室、上野守、祁答院駿河守、又十郎、尼僧、常陸守室、僧侶 |
島津薩州家3代当主。島津国久の嫡男。母は禰寝重清の娘。弟に大野忠綱、吉利秀久、寺山光久がいる。子に菱刈重副室、島津忠興、寛庭夫人(島津忠良室)、島津実久室などがいる。初名は忠貞。名は重久ともする。
生涯
編集明応7年(1498年)に父国久が死ぬと、その2年後にお家騒動が勃発する。子の忠興と共に加世田城の島津忠福を攻め、忠福に加勢した伊作久逸を討ち取る。
娘は8人いたとされ、長女は菱刈重副(菱刈氏13代当主、菱刈重猛・隆秋兄弟の祖父)に嫁ぐ。三女の御東は島津忠良に嫁いで島津貴久や忠将を産んだ。五女の妙朝は忠興の子の実久に嫁いで義虎を産む。
子の忠興に家督を譲り、隠居しながら後見していたが、忠興が先立って病没したため、孫の実久を後見した。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 地誌備考四』2017年、7頁 。
- ^ 『日向郷土史料集 第6巻』1963年、235頁。doi:10.11501/9769848 。
- ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜3』1989年、445-447,492頁 。