島尻郡
沖縄県の郡
人口106,421人、面積234.9km²、人口密度453人/km²。(2024年11月1日、推計人口)
以下の4町8村を含む。
郡域
沿革
- 明治29年(1896年)4月1日 - 沖繩縣ノ郡編制ニ關スル件(明治29年勅令第13号)の施行により、島尻方(小禄間切・豊見城間切・兼城間切・高嶺間切・真壁間切・喜屋武間切・摩文仁間切・具志頭間切・玉城間切・知念間切・佐敷間切・東風平間切・大里間切・南風原間切・真和志間切・具志川間切・仲里間切)および久米島・慶良間諸島・渡名喜島・粟国島・伊平屋諸島・硫黄鳥島・大東島(この時点で南大東島・北大東島)の地域をもって行政区画としての島尻郡が発足(17間切7諸島)。郡役所が那覇区に設置。
- 1900年(明治33年) - 沖大東島が日本領に編入(9月26日)[1]、島尻郡に属する(10月17日)[2]。
- 明治36年(1903年) - 小禄間切の一部(儀間村の一部)が那覇区に編入。
- 明治41年(1908年)4月1日 - 島嶼町村制施行により、島尻郡に糸満町(兼城間切のうち糸満村が分立)・小禄村・豊見城村・兼城村・高嶺村・真壁村・喜屋武村・摩文仁村・具志頭村・玉城村・知念村・佐敷村・東風平村・大里村・南風原村・真和志村・具志川村・仲里村・渡嘉敷村・座間味村・渡名喜村・粟国村・伊平屋村が発足。(1町22村2島)
- 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和14年(1939年)7月1日 - 伊平屋村が廃止され、一部(伊是名島)に伊是名村、残部に改めて伊平屋村が発足[3]。(1町23村2島)
- 昭和20年(1945年)4月1日 - 米国海軍軍政府布告1号により米軍占領地域で順次日本政府の統治から切り離されアメリカの統治下になる。
- 昭和21年(1946年)
- 1月 - 連合国軍最高司令官総司令部覚書により連合国よりアメリカ軍政へ移管される。
- 4月1日 - 真壁村・喜屋武村・摩文仁村が合併して三和村が発足。(1町21村2島)
- 6月12日 - 南大東村・北大東村が村制施行。(1町23村)
- 昭和24年(1949年)4月1日 - 大里村の一部(与那原・上与那原・板良敷)が与那原町として分立。(2町23村)
- 昭和28年(1953年)10月1日 - 真和志村が市制施行して真和志市となり、郡より離脱。(2町22村)
- 昭和29年(1954年)9月1日 - 小禄村が那覇市に編入。(2町21村)
- 昭和36年(1961年)10月1日 - 糸満町・兼城村・高嶺村・三和村が合併し、改めて糸満町が発足。(2町18村)
- 昭和46年(1971年)12月1日 - 糸満町が市制施行して糸満市となり、郡より離脱。(1町18村)
- 昭和47年(1972年)5月15日 - 全域が日本に復帰する(沖縄返還)。「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第3条により「従前の沖縄県は、当然に、地方自治法に定める県として存続するものとする。」と、第7条により「沖縄の市町村は、地方自治法の規定による市町村となるものとする。」と規定され、地方自治法が適用される。
- 昭和54年(1979年)10月1日 - 東風平村が町制施行して東風平町となる。(2町17村)
- 昭和55年(1980年)4月1日(4町15村)
- 平成14年(2002年)4月1日(5町12村)
- 平成18年(2006年)1月1日(4町8村)
備考
出典
- ^ 内務大臣訓令訓第913號「北緯二十四度三十二分三十秒東經百三十一度十九分ニ在ル島嶼ヲ沖大東島ト稱シ自今其縣島尻郡大東島ノ區域ニ編入ス此ノ旨管内ニ告示セラルヘシ」
- ^ 沖縄県告示第95号
- ^ https://dl.ndl.go.jp/pid/2960238/1/15
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 47 沖縄県、角川書店、1986年6月1日。ISBN 4040014707。
外部リンク
- 島尻郡に関連する地理データ - オープンストリートマップ