岩村通世
日本の司法大臣、法曹会幹部
岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、太平洋戦争開戦、ドーリットル空襲の時の日本の司法大臣であり法曹会幹部である。
岩村 通世 いわむら みちよ | |
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岩村通世 | |
生年月日 | 1883年8月21日 |
出生地 | 東京府東京市神田区 |
没年月日 | 1965年3月13日(81歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
前職 | 司法官 |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
第44代司法大臣 | |
内閣 |
第3次近衛内閣 東條内閣 |
在任期間 | 1941年7月25日 - 1944年7月22日 |
在任期間 | 1940年1月17日 - 1941年7月25日 |
略歴
編集1882年(明治16年)8月21日、東京府東京市神田区神保町に生まれた。男爵岩村通俊の五男。次兄の岩村俊武は海軍中将、従弟の林譲治は衆議院議長。
父通俊は当時司法大輔(現在の司法次官)で、北海道初代長官に任せられて札幌に赴任。彼も幼少期を札幌で過ごした。1889年、父は農商務大臣就任および貴族院議員勅任により東京に戻ったが、彼は父の郷里宿毛に行き宿毛小学校で学んだ。吉田茂は同小学校の同窓生。
1893年(明治26年)、高知市の高知県立第一中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校の前身)に入学。岡山県の第六高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学(現東京大学)独法科を卒業した。同年、司法官試補に任ぜられ、甲府地方裁判所に赴任。
1940年(昭和15年)、検事総長に就任。翌年7月に第3次近衛内閣の成立で司法大臣に任命された。東條内閣でも留任。同内閣の総辞職により退任した。
1945年(昭和20年)9月、A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収容された。戦時特別法など司法弾圧について取り調べられたが、1948年(昭和23年)に至って不起訴処分で釈放された。その後公職追放となる[1]。
1949年(昭和24年)東京家庭裁判所調停委員に任命された。以後は弁護士として活動し、日本調停協会連合会理事長なども務めた。1965年(昭和40年)3月13日死去。81歳。墓所は多磨霊園。
栄典
編集著作
編集- 岩村通世『満洲国の司法制度』中央満蒙協会、1936年。
- 岩村通世『保護随想』司法保護協会、1941年。
- 岩村通世 著「少年法」、末弘厳太郎 編『現代法学全集』 36巻、日本評論社、1928年。
脚注
編集参考文献
編集- 『岩村通世伝』岩村通世伝刊行会、1971年。ASIN B000J9FO6M
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。
外部リンク
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