岩城常隆 (下総守)
岩城 常隆(いわき つねたか)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。岩城氏11代当主。陸奥国大館城主。
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永正7年11月27日(1510年12月27日)[1]または天文11年2月9日(1542年2月23日)[2] |
別名 | 平二郎[3] |
戒名 | 可山明繁[4]/可山繁公[5][6] |
墓所 | 福島県いわき市 禅勝山龍門寺 |
官位 | 従五位下[4]・下総守[4][3]、左京亮[4] |
氏族 | 岩城氏 |
父母 | 父:岩城親隆、母:岩城隆平娘[4][3] |
兄弟 | 大館隆景室[5]、常隆、車隆景 |
妻 | 白土隆衡娘[4] |
子 |
盛隆、由隆、船尾隆相、菊田隆道、 富岡隆時、田村義顕室、那須政資室、 喜山妙悦禅完尼[7](佐竹義舜正室)、 上遠野長秀室、等計50人[6][8] |
略歴
編集岩城親隆の嫡男[6]として誕生。永享12年(1440年)、父・親隆と共に結城合戦での軍忠を室町幕府6代将軍・足利義教から賞されている[4]。寛正4年(1463年)、那須資房や宇都宮義員らと交戦し勝利するも、縄釣原の戦いでは資房に大敗を喫した[9][4]。
家督を継いだ当初は隠居した父・親隆と共同統治する[10]。文明17年(1485年)、佐竹氏領の砥上某の車城、大塚成貞の龍子山城を攻め落としている[11]。
文亀2年(1502年)、佐竹義舜に助力し山入氏義討伐に協力した[12][4]。また、白河結城氏の内訌や古河公方家の内紛(永正の乱)に乗じ、これに介入し勢力を広げ、岩城氏の全盛期を築き上げた。
子・盛隆に家督を譲ったがまもなく当主は盛隆の弟・由隆に代わり、常隆は父・親隆と同様、隠居として由隆と岩城氏を共同統治した。永正11年(1514年)に那須氏(上那須氏)で内紛が勃発し、那須資永(結城顕頼の弟)が自刃に追い込まれ、那須政資(下那須氏当主那須資房の子)が上那須氏の当主になると、結城顕頼の求めに応じ那須氏を攻めたものの戦果は挙げられず、縁戚関係を結んで那須氏と和睦したとされる。
脚注
編集出典
編集- 『亀田岩城家譜』
- 『岩城系図』(陸中)
- 『寛政重修諸家譜』(五百十二)
- 『諸家系図纂』(十四下)
- 『岩城家略記』
- 『常陸三家譜』
- 『常陸史料』(三 佐竹氏譜上)