岩佐純
日本の医師
岩佐 純(いわさ じゅん、天保6年5月1日[1]〈1835年5月27日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日[2])は、日本の医師。男爵、宮中顧問官。字は仲成、通称は又玄、号は黙斎。
経歴
編集越前国福井三上町に代々福井藩医を務める岩佐家に生まれる。父親は岩佐玄珪[3]。1856年(安政3年)より江戸で西洋医学を学び、さらに下総国に赴いて佐藤尚中の門に学んだ[4]。1860年(万延元年)、福井藩医・洋学所教授に任命され、さらに長崎に遊学してオランダ人ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトらに医学を学んだ[4]。
1869年(明治2年)、徴士として明治政府に出仕し、学校権判事、大学少丞、大学権大丞、大学大丞、中教授を歴任し、大阪医学校開設など医学教育の充実にあたった[4]。1872年(明治5年)に大侍医となり、四等侍医、三等侍医、二等侍医、一等侍医と昇進していった[4]。初めは昭憲皇后の診察にあたったが、後に明治天皇の診察にあたった[4]。また告成堂病院を開いて院長を務め、子息の岩佐新とともに診察にあたった[4]。1884年(明治17年)に医学研究のため1年半欧州に滞在した[5]。1888年(明治21年)の明治天皇第5皇女久宮静子内親王危篤の際には、御匙医の浅田宗伯と治療を巡って争いとなり、処置に困った香川敬三が天皇に伺いを立て、侍医の池田謙斎を呼び戻して岩佐と治療にあたることになったが、救うことはできなかった[5]。
1898年(明治31年)より宮中顧問官を兼ね、1907年(明治40年)には男爵を授けられた[6]。
1911年(明治44年)、病のため侍医を辞した[6]。翌年、病をおして宮中新年宴会に参内したが、豊明殿で昏倒して死去した[6]。
家族
編集栄典
編集- 位階
- 勲章
著作
編集- ニーマイル『急性病類集』 巻之1、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415。全国書誌番号:40057244 NDLJP:834772。
- ニーマイル『急性病類集』 巻之2、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415。全国書誌番号:40057244 NDLJP:834773。
- ニーマイル『急性病類集』 巻之3、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415。全国書誌番号:40057244 NDLJP:834774。
- ニーマイル『急性病類集』 巻之4、岩佐純編訳、告成堂、1873年11月。 NCID BA43856415。全国書誌番号:40057244 NDLJP:834775。
- ニーマイル『急性病類集』 巻之5、岩佐純編訳、告成堂、1876年6月。 NCID BA43856415。全国書誌番号:40057244 NDLJP:834776。
脚注
編集- ^ 人事興信所編 『人事興信録 第3版』 人事興信所、1911年。
- ^ 『官報』第8563号、明治45年1月9日。
- ^ 岩佐純君『立身致富信用公録. 第14編』(国鏡社, 1903)
- ^ a b c d e f 立身致富信用公録 第14編 pp.14-15 1903.
- ^ a b 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題深瀬泰旦、日本医史学雑誌 第61巻第2号(2015)
- ^ a b c 稿本 福井市史(上) pp.856-857 1941.
- ^ 岩佐厳デジタルアーカイブ福井
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
- ^ 『官報』第7394号「叙任及辞令」1908年2月22日。
- ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
- ^ 『官報』第1351号「彙報」1887年12月28日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
参考文献
編集- 『立身致富信用公録 第14編』国鏡社、1903年。
- 『稿本 福井市史(上)』福井市、1930年。
外部リンク
編集- 『岩佐純』 - コトバンク
- 岩佐純 (初版) - 『人事興信録』データベース
- 岩佐 純 | デジタルアーカイブ福井
- 伝記 岩佐純先生小伝『中外医事新報. (765)』 (日本医史学会, 1912-02)
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 岩佐(純)家初代 1907年 - 1912年 |
次代 岩佐新 |