岡野龍一

日本の出版事業者、著作家、政治家
岡野竜一から転送)

岡野 龍一(竜一、おかの りゅういち、1893年明治26年)7月5日[1]1965年昭和40年)8月9日[2])は、日本の出版事業者、著作家政治家衆議院議員。「大正の高山彦九郎」と呼ばれた[3]

岡野龍一

経歴

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広島県広島市で岡野音吉の二男として生まれる[4][5]。1923年(大正12年)に分家した[4]大正末期に九州で普選運動に尽力して「大正の高山彦九郎」と呼ばれ、福岡県で遊説中の中野正剛と出会って意気投合し、中野の協力者となった[3]

雑誌『日本及日本人』の記者となる[2][4][5]。我観社の理事となり経営に参画し、また、日本講演通信社社長を務め、図書出版社・良山閣を設立して経営を行った[2][5]。その他、全国教育図書協会顧問、石門心学会評議員などを務めた[2]

1926年(大正15年)10月の補欠選挙第15回総選挙福岡県第10区)に吉田磯吉、中野正剛の推薦を受けて出馬したが、山内確三郎に敗れた[3]。1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙立憲民政党公認で福岡県第3区から出馬して当選[2][5]。 1931年(昭和6年)には安達謙蔵らとともに民政党を離党[6]して国民同盟結成に参画。 1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙で再選され、衆議院議員を通算2期務めた[2][5]。この間、国民同盟の勢力拡張に尽力した[3]。その後、大政翼賛会東亜局庶務部副部長、同部長、組織変更により興亜局庶務部長を歴任した[4][7]1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。

戦後、翼賛議員の経歴により公職追放となった[8]

著作

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  • 『陸軍は満洲問題をどう見るか』日本講演通信社、1934年。
  • 『実地踏査を語る 北支問題早わかり : 軍部はどう動く?』日本講演通信社、1935年。
  • 『準戦時体制と国民生活』日本講演通信社、1937年。
  • 『少年少女就職の心得 : 父兄に告ぐ』日本講演通信社、1937年。
  • 『爆発の北支を現地に見る』日本講演通信社、1937年。
  • 『戦時食糧政策其の他に付き拓務、農林、大蔵、陸軍各大臣に問ふ』桧垣清人、1939年。
  • 『爆発の北支を現地に見る』日本講演通信社、1939年。
  • 『海南島現地報告』日本講演通信社、1939年。
編著
  • 編『中野正剛対露支論策集』我観社、1926年。
  • 編『八聖殿講演集 第2輯』日本講演通信社、1935年。
  • 編『八聖殿講演集 第3輯』日本講演通信社、1936年。

脚注

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  1. ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、31頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』149頁。
  3. ^ a b c d 『国民同盟陣営展望』106-109頁。
  4. ^ a b c d 『人事興信録』第14版 上、オ212頁。
  5. ^ a b c d e 『衆議院議員略歴』109頁。
  6. ^ 安達系の七人が続いて脱党『大阪毎日新聞』昭和6年12月14日夕刊(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p721 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  7. ^ 『東京裁判却下未提出弁護側資料 第5巻』173頁。
  8. ^ 『公職追放に関する覚書該当者名簿』「一般該当者名簿」477頁。

参考文献

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  • 東京裁判資料刊行会編『東京裁判却下未提出弁護側資料 第5巻』国書刊行会、1995年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
  • 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1940年。
  • 森岩吉『国民同盟陣営展望』政界評論社、1934年。