岡崎生三
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日(嘉永4年1月3日[1][2]) - 1910年(明治43年)7月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。
岡崎 生三 | |
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生誕 |
1851年2月3日 土佐国幡多郡中村 |
死没 | 1910年7月27日(59歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1910年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第13師団長 歩兵第20旅団長 歩兵第15旅団長 |
戦闘 |
戊辰戦争 西南戦争 日露戦争 *沙河会戦 |
経歴
編集土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村に生まれる[1][3]。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む[1][4]。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征[1]。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する[1]。
後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した[1][4]。参謀本部付、第2師団参謀長などを歴任し、1901年(明治34年)2月、陸軍少将に進級[1][4]。日露戦争では歩兵第15旅団長として出征し、沙河会戦まで指揮を行った[1][2]。歩兵第20旅団長などを経て、1906年(明治39年)7月、陸軍中将に昇進し第13師団長に親補された[1][2][4]。1907年(明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる。1910年6月に待命となり、翌月に死去した[1][2][4]。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
- 1896年(明治29年)5月5日 - 勲三等旭日中綬章[8]
- 1904年(明治37年)11月29日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[10]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [11]
- 1908年(明治41年)12月1日 - 勲一等旭日大綬章[12]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[13]
- 外国勲章佩用允許
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、39頁。
- ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』165頁。
- ^ 高知新聞社 1999, 148頁.
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』35頁。
- ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
- ^ 『官報』第7495号「叙任及辞令」1908年6月22日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』号外「敍任及辞令」1896年5月14日。
- ^ 『官報』第6426号「叙任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵・敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7808号・付録「辞令」1909年7月6日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。
軍職 | ||
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先代 原口兼済 |
第13師団長 第2代:1906年7月6日 - 1910年6月1日 |
次代 長岡外史 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 岡崎(生三)家初代 1907年 - 1910年 |
次代 岡崎正雄 |