山路慎一
山路 慎一(やまじ しんいち、1964年(昭和39年)5月3日 - 2014年(平成26年)5月26日[1])は、日本の元・レーシングドライバー。千葉県野田市出身。血液型はA型。身長181cm。
山路 慎一 | |
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基本情報 | |
フルネーム | 山路 慎一(やまじ しんいち) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 日本・千葉県野田市 |
生年月日 | 1964年(昭和39年)5月3日 |
没年月日 |
2014年5月26日(50歳没) 日本・静岡県駿東郡長泉町 |
所属チーム | Team TAISAN(最終所属) |
初戦 | 筑波サーキットプロダクションカーレース(1986年) |
最終勝利 | 2位入賞 |
最終戦 | 鈴鹿サーキットで開催された第10戦(2012年) |
経歴
編集1986年(昭和61年)、筑波サーキットプロダクションカーレースでデビュー。
1987年(昭和62年)には富士スピードウェイ JSSレースに参戦する。1990年には、富士フレッシュマンレースのRX-7クラスでシリーズチャンピオンを獲得。
1991年(平成3年)からジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・トヨタ、フォーミュラ・ミラージュで好成績を残す。また、グループA仕様のカローラレビンでJTCやマカオGPのサポートレースであるギアレースにも参戦した。
1994年(平成6年)から2011年(平成23年)まで全日本GT選手権・SUPER GTに参戦する(下記参照)。
2006年(平成18年)にはポルシェ・カレラカップアジアに参戦し、シリーズ2位を獲得。2012年(平成24年)にはポルシェ・カレラカップジャパンに参戦し、第2戦で優勝。鈴鹿サーキットで開催された第10戦(2位入賞)が最後のレースとなった。
2009年(平成21年)には神本寿と共に全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の副審査員を務めたほか、2011年(平成23年)にはD1グランプリの審査体制変更に伴い正審査員に就任した。
晩年は富士スピードウェイの競技長を務めた。
かねてから闘病中だったが、2014年(平成26年)5月25日夜に体調を崩して入院。翌5月26日に静岡県立静岡がんセンターで急逝。50歳没。病名は非公表。
全日本GT選手権・SUPER GTでの活躍
編集1994年(平成6年)にRACING TEAM 中春からGT1(現在のGT500)クラスに参戦。初戦で2位入賞を果たす。
1996年(平成8年) - 1998年(平成10年)はRE雨宮からGT300クラスに参戦。優勝は1996年のオールスター戦のみだった。
1999年(平成11年)にはトムスに移籍してGT500クラスに参戦。1999年(平成11年)・2000年(平成12年)は思ったほどの活躍はなかったが、2001年(平成13年)には待望の初勝利を挙げる。2002年(平成14年)には土屋エンジニアリングに移籍したが、成績は芳しくなかった。
2003年(平成15年)にはGT300クラスに復帰し、最終戦まで柳田真孝らとシリーズチャンピオンを争った。2004年(平成16年)に古巣のRE雨宮に、2006年(平成17年)にタイサンに移籍し、2011年(平成23年)まで参戦を続けた。
1998年(平成10年)5月3日、富士スピードウェイで開催された全日本GT選手権(JGTC)第2戦フォーメーションラップ中の事故で太田哲也のマシンが爆発炎上した際、最初に救助に向かったのはコースオフィシャルではなく、自らのマシンをコース上に停め救出に向かった山路であり、車載の消火器で消火活動を行った[2]。なお、山路は直前のレースで太田から幅寄せされる形になり、結果的にコースアウトしてリタイアに追い込まれた上にマシンは全損、山路自身も激怒していたという経緯があり、遺恨の相手となっていた太田を火中に救出に向かった行動は賞賛された。
人物
編集- 10代の頃は暴走族であり、制服がブレザーの中央学院高等学校に一人学ランリーゼントで登校していた。
- 当時からサバンナRX-3、コスモAPや初代RX-7といったロータリーエンジン搭載車種を乗り継いでいたが、暴走族らしくいずれもタケヤリマフラーを装備していた。その事を『ビデオオプション』でネタにされ続け、「タケヤリ山路」の愛称が付けられていた。
- 富士スピードウェイに初めて行った理由として上記のコスモAPやSA22Cをパドック裏の駐車場で見せびらかすためだった。
- SA22Cに乗っていた時代には燃料代を節約するために軽油を給油していた。
- 上記のRX-7に乗っていた頃、レーシングドライバーの袖山誠一と出会い、レーサーとして走ることを目指す。その後は雨宮勇美(RE雨宮代表)の元で活躍することになる。
- 25歳だった1990年(平成2年)頃は、レース参戦による借金で切羽詰まっており、昼はガソリンスタンド、夜はレストランの厨房や24時間営業のゲームセンターの管理人等の仕事を掛け持ちし、肉体的にも厳しかった。しかし、「こんなに苦労してるんだから、速くなってみせる」という信念が日増しに強くなり、結果的に富士フレッシュマンレースのRX-7クラスでチャンピオンを獲り、自分の大きなターニングポイントになった時期だと語っている[3]。
レース戦績
編集全日本フォーミュラ3選手権
編集年 | チーム | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
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1991年 | Yours Sports R. | 無限 | SUZ | FSW | SUZ | TSU | SEN | MIN | TSU | SUG | SUZ DNQ |
SUZ | NC | 0 |
1992年 | Juice Tree | SUZ 22 |
TSU DNQ |
FSW DNQ |
SUZ 16 |
SEN | TAI | MIN | SUG | SUZ | SUZ | NC | 0 |
全日本ツーリングカー選手権
編集年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
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1991年(平成3年) | Kawasho | トヨタ・カローラレビン | JTC-3 | SUG | SUZ | TSU Ret |
SEN | AUT | FSW 4 |
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1992年(平成4年) | JTC-3 | TAI | AUT | SUG | SUZ 7 |
MIN | TSU 5 |
SEN | FSW 8 |
23位 | 15 |
全日本GT選手権,SUPER GT
編集ル・マン24時間レース
編集年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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2006年(平成18年) | チーム・タイサン・アドバン | 西澤和之 フィリップ・コリン |
ポルシェ・911 GT3RS | GT2 | 291 | 22位 | 5位 |
脚注
編集- ^ “JGTCで4勝。レーシングドライバー山路慎一が急逝”. オートスポーツweb. 株式会社サンズ (2014年5月26日). 2014年5月27日閲覧。
- ^ 大事故発生!! 1998 GT選手権 開幕戦 V OPT 053 ⑦ - YouTube ビデオオプション公式チャンネル 2019年5月17日
- ^ 週刊オートスポーツNO.858 2002年3/7号 68頁「レーサーのアルバムvol.4」より
外部リンク
編集- 山路慎一の説教部屋 - Ameba Blog(2010年3月14日 23:09:56 - 2014年5月24日 11:41:29)
- 山路慎一 (@YamajiShin1) - X(旧Twitter)(2011年3月18日 12:08:35 - 2014年5月24日 12:19)※ UTC表記。
- 〜山路慎一〜 SHINICHI YAMAJI Offical Web Site 公式サイト
- 山路 慎一 "Legend of Yamaji Shinichi" (shin1yamaji) - Facebook(2015年6月1日 - )※ 山路慎一オフィシャルウェブ実行委員会が運営しており、山路没後も更新されている。