小笠原貞信
小笠原 貞信(おがさわら さだのぶ)は、下総関宿藩の第2代藩主、のちに美濃高須藩主を経て、越前勝山藩の初代藩主となる。信嶺系小笠原家3代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永8年8月24日(1631年9月20日) |
死没 | 正徳4年6月17日(1714年7月28日) |
改名 | 伊勢松(幼名)、貞信 |
別名 | 新五郎(通称) |
諡号 | 一玄 |
墓所 |
東京都台東区松が谷の海禅寺 福井県勝山市の開善寺 |
官位 | 従五位下、土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 下総関宿藩主→美濃高須藩主→越前勝山藩主 |
氏族 | 高木氏→小笠原氏 |
父母 |
父:高木貞勝、母:小笠原信之の娘 養父:小笠原政信 |
妻 |
正室:小笠原政信の娘 継室:遠藤慶利の娘 |
子 |
清信、信秀、貞政、娘(秋山正輔正室) 養子:信辰 |
生涯
編集寛永8年(1631年)8月24日、旗本で交代寄合高木貞勝(美濃衆)の長男として美濃石津郡多羅で生まれる。母が小笠原信之の娘であったため、下総関宿藩の初代藩主・小笠原政信(信之の長男)の婿養子となる。寛永17年(1640年)7月に政信が死去したため、家督を継いで関宿藩主となるが、10歳の幼少では重要な関宿は守れないとして9月に美濃高須藩に移封された。元禄4年(1691年)に越前勝山藩に移封される。
相次ぐ移封と、元禄5年(1692年)から元禄6年(1693年)までの大坂加番などによる出費で財政難を招いたため、年貢増徴による財政改革を行なった。しかし、これは百姓の反発を招き、元禄10年(1697年)には百姓の逃散と江戸越訴により、百姓の年貢減免要求を受け入れざるを得なくなった。
元禄15年(1702年)7月18日、家督を孫で養子の信辰に譲って隠居し、一玄と号した。隠居後は小笠原氏の本拠であった武蔵本庄で過ごしたが、なおも大殿として藩政の実権は握っていた。このため、藩政が混乱し、家督抗争や主導権争いも起こっている。正徳4年(1714年)6月17日に死去。享年84。
人物
編集系譜
編集父母
正室、継室
子女
養子