小栗 忠高(おぐり ただたか、文化6年1月3日1809年2月16日) - 安政2年7月28日1855年9月9日))は、江戸幕府旗本(知行2,500石)。

経歴

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中川忠英(飛騨守)の四男。隣家の小栗家10代、小栗忠清の娘くに子(くに、邦子)の婿となり、小栗家を継ぐ。通称、又一。義弟に日下数馬(庄次郎。房元。忠高が婿養子に入ったのちに出生した為、日下家の養子に入った)。子に長男小栗忠順

持筒頭などを歴任し、嘉永7年(1854年)閏7月1日に新潟奉行となり、任地で安政2年(1855年)に病のため47歳で没す[1]。墓所は新潟市法音寺。家督は忠順が継いだ。忠高は生前に祭祀料として50両を親しくしていた紙問屋の藤井忠太郎に預け、小栗家の祭祀の際にはそれを使って法音寺に支払いをした[2]

脚注

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  1. ^ 医師の誤診により死んだとされる。上州路 2003年1月号 あさを社
  2. ^ 小栗上野介の子孫『大隈侯一言一行』市島謙吉、 (早稲田大学出版部, 1922)

参考文献

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関連項目

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