小川エレナ
小川 エレナ(おがわ エレナ、1962年7月4日[1][注釈 1] - )は、日本の元タレント・モデル・女優。本名、ELENA金谷DEJAVING[3][4](エレナ・かなや・ディジャービン)[5]。
おがわ エレナ 小川 エレナ | |
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本名 |
ELENA金谷DEJAVING (エレナ・かなや・ディジャービン) |
生年月日 | 1962年7月4日(62歳) |
出生地 | 日本・東京都渋谷区 |
身長 | 165cm |
ジャンル | モデル、俳優 |
活動内容 | バラエティ番組、テレビドラマなど |
事務所 |
オスカープロモーション → ホワイトルーム → JEAN |
主な作品 | |
『燃えろアタック』 『11PM』 |
東京都[1][3]渋谷区出身[5]。所属していた事務所はオスカープロモーション(1981年当時)[1] → ホワイトルーム(1983年当時)[6] → JEAN[2]。
来歴・人物
編集父がフィリピン人、母が日本人のハーフ[3]。しかしフィリピンへは、1981年の時点で「行ったことが無い」と話している[3]。
中学3年生のころ東京・銀座でスカウトされる[7]。しかし本人は「大学に進学して就職して結婚して、普通の暮らしがしたい」とこの時あまり気乗りはしていなかったが、母から「社会勉強になるから」と勧められて、モデルとしてデビュー[3]。後に女性ファッション雑誌『JJ』の表紙のレギュラーになるなどトップ・モデルとして活動[5]。
東京都立青山高等学校[5]は2年生の時から休学していた[3]が卒業。
両親とも英語が流暢に話せるが、自分は話すことは出来なかった[4]。ファンレターを英語で書いて来た人がいたが読めなかったという[4]。
1982年には旅行会社のスキーツアーのポスターのモデルを務める[8]。以後1980年代後期頃でもグラビアなどで活動[9]、1990年8月25日には平浩二とのデュエットシングル『デュオ・ランバダ』(ワーナー)をリリースし[2]、小学館『GORO』1991年2月14日号では「これで最後」としたグラビアを披露する[2]など1990年代前期頃までは活動が確認出来るが、その後は不明。
- 以下は1980年-1981年当時公表されていたプロフィール。
なお、1981年6月21日に発売された角松敏生1作目のアルバム『SEA BREEZE』収録曲『Elena』は、小川への憧れで作られた曲である。
出演
編集テレビドラマ
編集テレビバラエティ
編集- 11PM(日本テレビ)- 月曜カバーガールとしてレギュラー出演[3]。
- Do!スポーツ(テレビ東京)- 1983年1月〜1984年10月、ソフィーとのコンビで「ソフィー&エレナ」の“Do!Sports Gals”(アシスタント)としてレギュラー出演。
CM
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 平凡パンチ 1981年1月19日号 33頁「COVER GAL TALKS」
- ^ a b c d GORO 1991年2月14日号 98〜100頁 本人グラビアページ
- ^ a b c d e f g h 週刊サンケイ 1981年2月12日号 181〜183頁「人物往来 小川エレナ」
- ^ a b c d e GORO 1981年3月26日号 62〜64頁「さわやかギャルとドッキリランデブー」
- ^ a b c d 平凡パンチ 1981年4月6日号 70〜73頁「林家しん平の大看板絶頂トーク」
- ^ a b GORO 1983年1月13日号 本人グラビアページ(189〜195頁)
- ^ 週刊ポスト 1981年1月23日号 48〜52頁「カネやんの秘球くい込みインタビュー」
- ^ a b 週刊TVガイド 1983年12月16日号 76頁「出番です」コーナー
- ^ デラべっぴん 1986年10月号 15頁掲載グラビア、など。
- ^ 週刊ポスト 1981年1月30日号 10頁「飛び出したフレッシュギャル」
- ^ a b c d 週刊プレイボーイ 1979年6月12日号「BEAUTIFUL CFガールズ」111〜130頁
- ^ 週刊プレイボーイ 1980年10月7日号 116頁「この夏人気のコマーシャル・モデルBEST20」
- ^ テレビドラマデータベース「俺たちの祭」
- ^ 昭和傑作テレビドラマDVDコレクション・33「俺たちの祭」(2024年11月27日号)p.7
- ^ 月刊現代 1981年4月号 38〜40頁「小川エレナ セクシーギャルはただいま休学中」