小呂島
小呂島(おろのしま)は、玄界灘上にある福岡県福岡市西区の島(離島)。筑前諸島地域として離島振興法の離島振興対策実施地域となっている[1]。島の面積は約0.43km2である[1]。
小呂島 | |
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2014年4月16日撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 | |
所在地 | 日本(福岡県福岡市) |
所在海域 | 日本海(玄界灘) |
座標 | 北緯33度52分01秒 東経130度02分09秒 / 北緯33.86694度 東経130.03583度 |
面積 | 0.43 km² |
海岸線長 | 3.3 km |
最高標高 | 109.3 m |
プロジェクト 地形 |
地理
編集周囲3.3kmの玄武岩を基盤とした孤島である[2]。南北に2つの峰があり、南の標高109.3 mの峰が島の最高峰で、嶽の宮神社が位置する。島の周囲は玄武岩の断崖絶壁で、一部に海蝕洞がみられる。南端に岩礫堆積平地があり、ここに集落が営まれる[3]。島周辺には対馬暖流が流れており、比較的気候は温暖で、嶽の宮神社の境内には、ソテツ、ビロウ、フェニックスなどの熱帯性植物が繁茂している。このほか、島の大半を松林が占め、それを開拓した畑地や広葉樹林が島の中央から南部の斜面に見られる[3]。
人口は156人(2023年1月末)[4]。
歴史
編集中世
編集小呂島の名が文献上に登場するのは鎌倉時代のことである。島の氏神である七社神社の棟札には、宗像郡東郷村の住人の名がある[5]。建長4年7月12日の『関東御教書』には筑前国志摩郡となっており、宗像大社の社領であった島に関して、中国系博多商人であった謝国明が妻の地頭を名乗って領有権を主張した[6]ことで領地争いになり[7]、宗像社雑掌が鎌倉幕府に社役対捍を訴え、幕府が謝国明に戒告したことを記録している[2]。翌建長5年5月3日の『北条長時書下』には、宗像大社を含めた3者による訴訟の記録があり、建武元年3月20日の雑訴決断所牒には、建武政権が宗像大社の小呂島所有を保障したことが記録されている[2]。また、李氏朝鮮の『海東諸国紀』にも於露島の名で登場する。このように、中世の小呂島は海上交通の要所であり、宗像大社が領有権を巡って熾烈な訴訟を繰り広げたことが分かる。
近世
編集近世には落人が流れ着いた伝承があるが[8]、ほぼ無人島であった。1645年(正保2年)に福岡藩の漁業権獲得政策により遠見番所が置かれ、北崎村(現在の福岡市西区大字宮浦付近)から「五軒家」と呼ばれた5世帯の漁民を移住させた[9]。後に2世帯が移住したため、近代に入るまではこの島の住民は皆この7種類の名字のいずれかであったという[5]。藩政時代は捕鯨が1679年(延宝7年)から6年間と1725年(享保10年)・1772年(安永元年)の3度試みられたが、台風による波止場の崩壊などでいずれも不調になったとされている[10]。福岡藩の流刑地でもあり、重罪者の流刑地として選ばれた。流人の監視として御常番の名で足軽が配置され、彼らもまた、近代までの小呂島の集落を構成する一部であった。福岡藩の学者であった貝原益軒も3年間この島に追放されている[8]。
近現代
編集1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)にかけて、島の北端に陸海軍共用の要塞(壱岐要塞小呂島砲台)が築かれ、陸軍300人、海軍30人の兵士が駐留した。これが原因となり、1945年(昭和20年)8月6日昼に米軍による空襲に見舞われ、本家の1軒を除く全ての家屋が焼け出されている[5]。
1889年(明治22年)の町村制施行時には志摩郡小田村に属した。その後、郡制や改称、編入により糸島郡小田村→糸島郡北崎村→福岡市→と変遷している。1961年(昭和36年)に福岡市に編入されて以後は福岡市の最北端となっている。
産業
編集ほとんどの島民が漁業で生計を立てている。
5月~12月までは旋網漁(まきあみりょう)、1月~4月までは個人漁を行う。
主に獲れる魚は、ブリ・アジ・サバ・ヒラメ・カレイなどで、季節や業種によって変わってくる。
これに加えて最近では新しい取り組みとして(6次産業化)、旋網漁で獲れたヤズ(ブリの若魚)をフレーク状に加工したものを販売している(ネット販売も有)。
これは"こねくり"と呼ばれる島の漁師飯を元にして作られたものである。
各種施設・学校
編集- 名所旧跡としては嶽の宮神社・七社神社・旧海軍望楼跡がある。ただし、これら目当ての観光客はほとんどおらず、訪問者の大半は釣り客である。
- 民宿等も含め宿泊施設がない(厳密には存在しないわけではないが工事等の業務目的での来島者のみ受け入れている)。宿泊する場合は野宿となるのでテントや寝袋等の持参が必要である。渡船場の待合室は船が欠航した場合のみ終日開放される。
- 商店は港近くの漁協にあるのみ。営業時間が短いので注意が必要である。食堂はない。
- 電力は島内にある内燃力発電所(九州電力送配電小呂島発電所)による。水道水は雨水を貯留した陸水と海水淡水化施設による水を併せて供給されている[11]。
- 島内に小中併設校(福岡市立小呂小中学校)がある。
- 伊豆大島土砂災害を契機に、島内にアメダスが設置された。[12]
交通
編集島の南側にある集落内の道と集落と島の中央部にある小中学校を結ぶ道路以外に主な道路は無く、周回道路は無い。
九州本土の姪浜渡船場との間で1日1~2便、福岡市営渡船の高速船「ニューおろしま」が運航されている。所要時間は65分、運賃は大人片道1,790円で、福岡市営渡船で最も長い航路である。火・木・土・日曜日の2便運航時に限り九州本土側から日帰りで島を訪れることが可能である。日帰りで訪問する場合、滞在可能時間は約3時間である。航路の特殊性から島民等の利用が優先される旨渡船場に注意書きがある。2000年の「ニューおろしま」就航により定員が60名に増加した。
小呂島では生活物資の運搬が市営渡船に強く依存しているという状況に鑑み、「ニューおろしま」には後部甲板に多目的貨物室およびプロパンガス専用エリアが設置されているほか、荷役の利便性確保のためにベルトコンベアが搭載されている[13]。
祭礼
編集脚注
編集- ^ a b 福岡県「福岡県離島振興計画 (令和5年度 - 令和14年度)」 - 国土交通省(2024年9月23日閲覧)
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典40 福岡県』 角川書店 ISBN 4-04-001400-6 1988年
- ^ a b 朽木昇一「小呂の島の自然と社會」『糸校文林』第3号 福岡県立糸島高等学校校友会文化部 1955年
- ^ “登録人口(公称町別)”. 福岡市 (2023年2月9日). 2023年2月25日閲覧。
- ^ a b c 野間吉夫『玄海の島々』慶友社 1973年
- ^ 『日本海事研究』
- ^ a b 高田茂廣 「島の史跡めぐり」 西区地域振興事業推進委員会 編・福岡市西区役所 監修『福岡史跡ガイド 西区は歴史の博物館』 海鳥社 1995年 ISBN 4-87415-139-6
- ^ a b 竜政雄「小呂の島の民俗採集」『糸校文林』第3号 福岡県立糸島高等学校校友会文化部 1955年
- ^ 後藤光秀『福岡歴史百景』葦書房、1994年6月1日、158頁。ISBN 978-4751205662。
- ^ 高田茂廣「西海捕鯨遺文」 『福岡市立歴史資料館研究報告』第8集 福岡市立歴史資料館 1988年
- ^ 福岡市 小呂島地区簡易水道事業(海水淡水化施設)
- ^ 観測史上1~10位の値(年間を通じての値)
- ^ 福岡市小呂島航路旅客船「ニューおろしま」について - SRC news (49), 8-9, 2001-01 財団法人日本造船技術センター - CiNii
- ^ “小呂島の御奉楽(ごほうらく)の三番叟(さんばそう)”. 西区の宝. 福岡市西区役所. 2023年2月25日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 小呂島 - 小呂島島づくり協議会
- 福岡市営渡船 - 福岡市
- 小呂島(おろのしま) - 西区の宝(福岡市西区役所)
- 国土地理院 地形図閲覧システム 2万5千分1地形図名:(内挿図又は図葉外)[リンク切れ]