宮坂健次郎
宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日[1] - 1966年(昭和41年)11月6日[1])は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉[1]。号・本郷子[2]。
宮坂健次郎 みやさか けんじろう | |
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生年月日 | 1884年6月1日 |
出生地 |
日本 長野県諏訪郡小井川村 (現・長野県岡谷市) |
没年月日 | 1966年11月6日(82歳没) |
出身校 |
諏訪中学校中退 (現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校) |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1949年4月15日 - 1963年9月1日 |
第2代 岡谷市会議長 | |
在任期間 | 1942年5月23日 - 1947年4月30日 |
在任期間 | 1936年4月 - 1947年4月 |
在任期間 | 1925年4月 - 1936年3月 |
来歴
編集長野県諏訪郡小井川村[1](平野村[2]を経て現岡谷市[1][2])で生まれた。後に健次郎を襲名[1]。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し[1]、家業の宮坂製糸所を承継[1]。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し[1][2]、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる[2]。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた[1][2]。
1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め[3]、同議長にも在任した[4]。岡谷市消防団長も務めた[2]。
1949年(昭和24年)岡谷市長に当選し、1963年(昭和38年)9月まで4期務めた[2][3]。在任中は土木・建設事業に力を入れ、塩嶺病院、岡谷市民会館、岡谷警察署の新築、精密工業研究所の誘致、中学校の統合などに尽力し、昭和の大合併では諏訪郡3村との合併を実現させた[2][3]。
人物
編集脚注
編集参考文献
編集- 田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。