宮之浦町
宮之浦町(みやのうらちょう[3])は、鹿児島県鹿児島市の町[4]。旧薩摩国鹿児島郡吉田郷宮之浦村、鹿児島郡吉田村大字宮之浦、鹿児島郡吉田町宮之浦。郵便番号は891-1305[5]。人口は1,635人、世帯数は841世帯(2020年4月1日現在)[6]。
宮之浦町 | |
---|---|
北緯31度41分13.1秒 東経130度33分43.7秒 / 北緯31.686972度 東経130.562139度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鹿児島県 |
市町村 | 鹿児島市 |
地域 | 吉田地域 |
標高 | 190 m |
人口 (2020年(令和2年)4月1日現在) | |
• 合計 | 1,635人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
891-1305 |
市外局番 | 099 |
ナンバープレート | 鹿児島 |
運輸局住所コード | 46500-1598[2] |
地理
編集鹿児島市北部の吉田地域の南部、稲荷川上流域の台地上に位置する[7]。町域の北方は鹿児島市本城町、姶良市平松、南方は鹿児島市川上町及び吉野町、東方は鹿児島市吉野町、姶良市脇元、西方は鹿児島市岡之原町及び本名町にそれぞれ接している。
町域の中央部に牟礼岡団地から構成されている牟礼岡一丁目から牟礼岡三丁目がある。また、町域の西方には九州自動車道が通っており、南西部には薩摩吉田インターチェンジが所在する。
山岳
編集- 牟礼ヶ岡
- 赤崩[8]
河川
編集- 稲荷川
歴史
編集先史時代
編集宮之浦町では先史時代の遺跡として牧遺跡、宮後遺跡、前畑遺跡、北平野遺跡、中原遺跡、山ノ上遺跡、崎山遺跡、落ノ上遺跡が発見されている。
牧遺跡は1953年(昭和28年)に牟礼谷で発見された9世紀頃の楕円形の土坑である[9][10]。蔵骨器には焼骨が入っており、周辺には土師器が6か所配置されていた[9][10]。宮後遺跡は1971年(昭和46年)の九州自動車道の建設時に発見された遺跡であり、九州自動車道の建設者である日本道路公団が鹿児島県教育委員会に依頼して埋蔵文化財の調査が行われた[11]。現在の薩摩吉田インターチェンジ付近から八幡神社の東側斜面に位置している遺跡であり[12]、縄文時代後期の土器や硬玉製丸玉[13]、平安時代以降の埦も発見されている[14]。
前畑遺跡・北平野遺跡は現在の鹿児島県青少年研修センター付近で発見された遺跡であり、成川式土器や土師器などが発掘されている[15]。中原遺跡では成川式土器や土師器・黒曜石が発掘され[16]、山ノ上遺跡では成川式土器がそれぞれ発掘されている[17]。
中世の宮浦名
編集鎌倉時代から戦国時代まで「宮浦名」と称しており[7]、大隅国吉田院のうちであった[7]。
建治2年(1276年)の大隅国在庁石築地役配符に「宮浦四丁八段<四尺八寸>二郎大夫清持領」とある[7]。清持は吉田氏の庶流であるとされる[18]。戦国時代には島津氏の領地となっており、永正14年(1517年)の島津氏老臣連署坪付によれば宮之浦と本名(現在の本名町)の1町1反余りが萩野又左衛門に宛がわれた[7][18][19]。
薩摩藩の地誌である三国名勝図会によれば天正15年(1587年)に吉田院の全域が大隅国から薩摩国に編入されたとされる[20]。
近世の宮之浦村
編集江戸時代には薩摩国鹿児島郡吉田郷(外城)のうちであった[7][21]。村高は「天保郷帳」では1,075石余[7]、「郡村高辻帳」では1,075石余[7][18][22]、「吉田神社仏閣旧跡改帳並方覚帳」では780石余[22]、「三州御治世要覧」では810石余[7][18]、「旧高旧領取調帳」では712石余であったと記されている[7]。
寛政6年(1794年)の人口は「吉田神社仏閣旧跡改帳並方覚帳」によれば349人であった[23]。元禄国絵図によれば谷之村は宮之浦村のうちであったと記載されている[18]。鹿児島から日向国に向かう薩摩街道の日向筋が通っており、白銀坂が薩摩国と大隅国の境界となっていた[18]。また、薩摩藩で禁制とされていた浄土真宗の信仰が行われていたとされ(隠れ念仏)、宮之浦では吉水・宮西に洞窟があり、洞窟で集会が行われていたとされる[24]。
町村制施行以降
編集1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い、それまでの吉田郷にあたる東佐多浦村、西佐多浦村、本城村、本名村、宮之浦村の区域より鹿児島郡吉田村が設置された[25]。それまでの宮之浦村は吉田村の大字「宮之浦」となった[7][25]。1972年(昭和47年)11月1日に吉田村が町制施行し吉田町となった[7][25]。
1973年(昭和48年)12月13日に鹿児島県初の高速道路として九州自動車道の薩摩吉田インターチェンジから加治木インターチェンジ(姶良市[注釈 2])までの区間が開通した[26]。九州自動車道の建設時に薩摩吉田インターチェンジ付近で前述の宮後遺跡が発掘された[27]。
1991年(平成3年)5月7日に牟礼ケ岡団地(三井ニュータウン)として造成された吉田町大字宮之浦の一部より分割され、牟礼岡一丁目・牟礼岡二丁目・牟礼岡三丁目が設置された[28]。
2004年(平成16年)11月1日に吉田町が鹿児島郡桜島町、日置郡松元町、郡山町、揖宿郡喜入町と共に鹿児島市に編入された[29]。合併に際して設置された法定合併協議会である鹿児島地区合併協議会における協議によって、吉田町の区域の大字については「字の区域を廃止し、当該廃止された字の区域に相当する区域により新たに町の区域を設定し、その名称については表示案に基づき、各町の意向を尊重し合併までに調整するものとする」と協定された[30]。
前述の協定に基づいて、合併前の10月26日に鹿児島県の告示である「 町の区域の設定及び字の廃止」が鹿児島県公報に掲載された[4]。この告示の規定に基づき、それまでの大字宮之浦は廃止され、大字宮之浦の全域を以て新たに鹿児島市の町「宮之浦町」が設置された[31][4]。
字域の変遷
編集実施後 | 実施年 | 実施前 |
---|---|---|
吉田町牟礼岡一丁目(新設) | 1991年(平成3年) | 吉田町大字宮之浦(一部) |
吉田町牟礼岡二丁目(新設) | ||
吉田町牟礼岡三丁目(新設) |
人口
編集宮之浦町(宮之浦)の人口の変遷を以下に示す。1995年(平成7年)以降のデータは国勢調査による小地域集計の人口の推移である。
統計年 | 人口 | ||
---|---|---|---|
1884年(明治17年) | [1] | 870 | |
1925年(大正14年) | [1] | 1,441 | |
1931年(昭和6年) | [1] | 1,494 | |
1980年(昭和55年) | [1] | 1,752 | |
1990年(平成2年) | [1] | 1,571 | |
1995年(平成7年) | [32] | 1,593 | |
2000年(平成12年) | [33] | 1,593 | |
2005年(平成17年) | [34] | 1,596 | |
2010年(平成22年) | [35] | 1,682 | |
2015年(平成27年) | [36] | 1,662 |
文化財
編集国指定
編集市指定
編集施設
編集公共
編集- 鹿児島県立青少年研修センター[40]
- 鹿児島県総合教育センター[41]
教育
編集寺院
編集その他
編集小・中学校の学区
編集市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[48]。
町丁 | 番・番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
宮之浦町 | 113-130、602-646、 887-898 |
鹿児島市立本名小学校 | 鹿児島市立吉田南中学校 |
3736-4051 | 鹿児島市立牟礼岡小学校 | ||
上記を除く全域 | 鹿児島市立宮小学校 |
交通
編集道路
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 23.
- ^ “自動車登録関係コード検索システム”. 国土交通省. 2021年4月26日閲覧。
- ^ “鹿児島市の町名”. 鹿児島市. 2020年7月30日閲覧。
- ^ a b c 平成16年鹿児島県告示第1775号(町の区域の設定及び字の廃止、 原文)
- ^ “鹿児島県鹿児島市宮之浦町の郵便番号”. 日本郵便. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成27~令和2年度)”. 鹿児島市 (2020年4月1日). 2020年5月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 611.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 928.
- ^ a b 竹森友子 2004, p. 28.
- ^ a b 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 112.
- ^ 河口貞徳, 戸崎勝洋 & 立神次郎 1983, p. 2, 宮後遺跡.
- ^ 河口貞徳, 戸崎勝洋 & 立神次郎 1983, p. 3, 宮後遺跡.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 115.
- ^ 河口貞徳, 戸崎勝洋 & 立神次郎 1983, p. 10, 宮後遺跡.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 117.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 117-118.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 118.
- ^ a b c d e f 芳即正 & 五味克夫 1998, p. 103.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 166.
- ^ 芳即正 & 五味克夫 1998, p. 100.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 207.
- ^ a b 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 213.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 211.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 226.
- ^ a b c 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 238.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 459.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 499.
- ^ 平成3年鹿児島県告示第1059号(町の区域の設定、平成3年5月1日付鹿児島県公報第338号の2所収)
- ^ 市町の廃置分合(平成16年総務省告示第591号、 原文)
- ^ “合併協定項目一覧”. 鹿児島市. 2020年10月29日閲覧。
- ^ “合併後の住所表示”. 鹿児島市. 2020年10月29日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成7年国勢調査 小地域集計 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成12年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成17年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “国勢調査 / 平成27年国勢調査 / 小地域集計 46鹿児島県”. 総務省統計局. 2021年11月28日閲覧。
- ^ 南日本新聞 2015, p. 1067.
- ^ 南日本新聞 2015, p. 1068.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 755-756.
- ^ “鹿児島県立青少年研修センター”. 鹿児島県. 2021年11月28日閲覧。
- ^ “交通アクセス”. 鹿児島県総合教育センター. 2021年11月28日閲覧。
- ^ 南日本新聞 2015, p. 950.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 609.
- ^ “こども未来局 保育幼稚園課”. 鹿児島市. 2021年11月28日閲覧。
- ^ a b 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 934.
- ^ a b c d 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 937.
- ^ 吉田町郷土誌編纂委員会 1991, p. 426.
- ^ “小・中学校の校区(学区)表”. 鹿児島市役所. 2020年9月26日閲覧。
参考文献
編集- 河口, 貞徳、戸崎, 勝洋、立神, 次郎『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告Ⅺ』 20巻鹿児島県鹿児島市山下町14番50号〈鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書〉、1982年3月(原著1982年3月)。doi:10.24484/sitereports.23040。 NCID BA43658626 。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会「角川日本地名大辞典 46 鹿児島県」『角川日本地名大辞典』第46巻、角川書店、日本、1983年3月1日。ISBN 978-4-04-001460-9。, Wikidata Q111291392
- 吉田町郷土誌編纂委員会『吉田町郷土誌』吉田町、1991年3月31日 。, Wikidata Q111435453
- 芳即正、五味克夫『日本歴史地名大系47巻 鹿児島県の地名』平凡社、1998年。ISBN 978-4582910544。
- 南日本新聞『鹿児島市史Ⅴ』 5巻、鹿児島市、2015年3月27日 。, Wikidata Q111372912
- 竹森友子、2015、「薩摩半島における奈良・平安時代の火葬墓に関する基礎的整理」 (pdf) 、『黎明館調査研究報告書』28巻、鹿児島県歴史資料センター黎明館
座標: 北緯31度41分13.1秒 東経130度33分43.7秒 / 北緯31.686972度 東経130.562139度