宝永の大火
1708年に京都で発生した火災
内容
編集午の下刻に油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火、南西の風に煽られて被害が拡大し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が悉く炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋など、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心とした417ヶ町、10351軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などを焼いた。
火災後、「見渡せば京も田舎となりにけり芦の仮屋の春の夕暮」と書かれた落首が市中に貼られた(『元禄宝永珍話』)。火災後、一部の町及び民家が鴨川の東や内野などの郊外に移され、千本通の西側や鴨川の東側まで京都の市街が拡大され、現代に観念される歴史的街並みが形成される契機となった[1][2]。たとえば、二条川東(元学区では新洞学区)はこの大火後に形成された町と寺院が集まる地域である。
脚注
編集- ^ 中村琢巳、塚本章宏、林倫子「都市大火史からみた近世京都の景観研究 災害空間復原を通した近世都市開発と歴史的建造物の読解」『京都歴史災害研究』第14巻、立命館大学歴史都市防災研究センター京都歴史災害研究会、2013年3月、21-28頁、CRID 1390291932665777280、doi:10.24484/sitereports.118329-44777、ISSN 13493388。
- ^ 鎌田道隆「近世都市における都市開発: 宝永五年京都大火後の新地形成をめぐって」『奈良史学』第14号、奈良大学史学会、1996年12月、61-75頁、CRID 1050300533202362752、ISSN 02894874、2024年7月26日閲覧。