宗秩寮(そうちつりょう、英語: Bureau of Peerage)は、宮内省に設置された内部部局の一つ。

概要

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宗秩寮は、宮内省内部部局の一つであり、皇族皇族会議朝鮮王公族爵位華族朝鮮貴族、また有位者に関する事務を掌る。 華族局爵位局爵位寮を経て、韓国併合後の1910年宗秩寮となる。宗秩寮としての初代総裁は久我通久1947年昭和22年)に廃止された。

宗秩寮審議会

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1910年、宮内大臣渡辺千秋により、宮内省に宗秩寮審議会及び審議会規則が置かれたが、審議の議事は非公開とされていた[1]

1921年にはこれが発展して、内閣総理大臣原敬により、宮内省考査委員会官制とともに、宗秩寮審議会官制(大正10年皇室令第17号)が施行された。宗秩寮審議会の委員は有爵者から5名、枢密顧問から3名、宮内勅任官から4名で、任命は宮内大臣によって行われた。審議会は華族に関する重要事項や懲戒、礼遇について、宮内大臣への報告を行った。

宮内省の人事は公開されており、1926年の職員録では有爵者委員の中に近衛文麿の名がある[2]

歴代宗秩寮総裁

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氏名 在任期間 備考
岩倉具視 明治9年12月31日 - 明治15年11月15日
香川敬三 明治15年11月15日 - 明治17年10月3日 兼任
浅野長勲 明治17年11月7日 - 明治18年7月8日 兼任
徳大寺実則 明治18年7月8日 - 明治21年5月28日 兼任
徳大寺実則 明治21年5月28日 - 明治21年10月30日
岩倉具定 明治21年10月30日 - 明治22年7月23日
岩倉具定 明治22年7月23日 - 明治41年1月1日
岩倉具定 明治41年1月1日 - 明治42年6月16日
久我通久 明治42年6月16日 - 明治43年8月29日
久我通久 明治43年8月29日 - 大正6年12月25日
井上勝之助 大正6年12月25日 - 大正10年10月1日
倉富勇三郎 大正10年10月1日 - 大正11年6月3日
徳川頼倫 大正11年6月3日 - 大正14年5月20日
倉富勇三郎 大正14年5月20日 - 大正14年6月8日
仙石政敬 大正14年6月8日 - 昭和8年8月24日
木戸幸一 昭和8年8月24日 - 昭和12年10月22日
白根松介 昭和12年10月22日 - 昭和13年1月18日 兼任
武者小路公共 昭和13年1月18日 - 昭和20年7月9日
松平慶民 昭和20年7月9日 - 昭和21年1月16日
松平康昌 昭和21年1月17日 - 昭和22年5月3日

脚注

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  1. ^ 1890年設置の貴族院争訟判決規則も同様に「議院の判決は理由を付せず」としているが、このように判断の理由を不可視とする規則については、イギリス人法制顧問のフランシス・テイラー・ピゴットが、伊藤博文に対し異議を唱えているものである。
  2. ^ 宮内大臣官房秘書課『宮内庁職員録』。1926年。

参考文献

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関連項目

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