井上勝之助
井上 勝之助(いのうえ かつのすけ、文久元年7月11日(1861年8月16日) - 昭和4年(1929年)11月3日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員、侯爵。条約改正に尽力した。
経歴
編集長州藩士・井上光遠(五郎三郎、井上馨の兄)の次男として周防国に生まれる。明治2年(1869年)に父が亡くなった後、叔父・馨の養嗣子となる。
明治4年(1871年)3月から明治12年(1879年)3月までイギリスに留学し法律学を学ぶ。帰国後、明治13年(1880年)2月に大蔵省雇となり商務局に勤務。同省で、御用掛・銀行局勤務、権少書記官、調査課長などを歴任。
明治19年(1886年)1月、外務省に転じ会計局次長心得に就任。以後、外務書記官・ドイツ公使館在勤、外務省参事官、大臣官房庶務課長、兼会計課長、弁理公使などを務める。明治31年(1898年)1月、特命全権公使としてドイツに赴任しベルギー公使を兼務。明治39年(1906年)1月、公使館が大使館に昇格し初代のドイツ駐箚特命全権大使に就任し[1]、翌40年(1907年)11月に帰国した。
明治44年(1911年)6月5日、貴族院議員に勅選され[2]、交友倶楽部に属して大正2年(1913年)2月13日[3]まで在任。同年同月8日、特命全権大使に任じられイギリスに赴任[4]。大正4年(1915年)9月20日、養父の死去に伴い侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員(終身)に就任[5]。翌5年(1916年)6月13日に帰朝を命ぜられた[6]。
大正6年(1917年)12月、宮内省の宗秩寮総裁となる。翌7年(1918年)3月、枢密顧問官を兼務。大正10年(1921年)10月から式部長官を務め、大正15年(1926年)11月に退任し枢密顧問官の専任となった。
その他、学習院長事務取扱、条約改正準備委員会副委員長などを務めた。
栄典
編集- 位階
- 1884年(明治17年)2月9日 - 正七位[8]
- 1884年(明治17年)10月3日 - 従五位[9]
- 1891年(明治24年)6月16日 - 正五位[10]
- 1896年(明治29年)7月20日 - 従四位[11]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 正四位[12]
- 1907年(明治40年)5月31日 - 従三位[13]
- 1911年(明治44年)6月20日 - 正三位[14]
- 1920年(大正9年)5月10日 - 従二位[15]
- 1927年(昭和2年)12月15日 - 正二位[16]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)10月31日 - 勲五等双光旭日章[17]
- 1897年(明治30年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[18]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[19]
- 1902年(明治35年)12月28日 - 勲二等瑞宝章[20]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[21]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[22]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[23]
- 1929年(昭和4年)11月3日 - 旭日桐花大綬章[24]・帝都復興記念章[25]
- 外国勲章佩用允許
親族
編集- 妻:井上末子(小沢正路の娘、母は井上光遠と井上馨の姉妹)
- 養嗣子:井上三郎(陸軍少将・桂太郎の三男)
- 養女:井上千代子(実父・井上馨、従妹、井上三郎の妻)[29]
- 養女:松平幸子(実父・新田忠純、松平慶民の妻)[29]
- 兄弟
系図
編集井上光茂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
来島又兵衛 | 房子 | 井上光亨 | 新田俊純 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森清蔵 | 厚子 | 伊藤博文 | 井上光遠 | 小沢正路 | 常子 | 井上馨 | 武子 | 新田忠純 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森祐三郎 | 児玉幾太郎 | 伊藤博邦 | 井上勝之助 | 末子 | 桂太郎 | 可那子 | 光子 | 都筑馨六 | 松平春嶽 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井上三郎 | 千代子 | 桂与一 | 貞子 | 幸子 | 松平慶民 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井上光貞 | 井上元勝 | 井上元広 | 馬越武子 | 桂広太郎 | 松平永芳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ The Japan Year Book1906, p86
- ^ 『官報』第8385号、明治44年6月6日。
- ^ 『官報』第161号、大正2年2月14日。
- ^ 『官報』第158号、大正2年2月8日。
- ^ 『官報』第943号、大正4年9月22日。
- ^ 「外務省月報(大正五年六月分)/職務進退」
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)38頁
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第382号「賞勲叙任」1884年10月4日。
- ^ 『官報』第2391号「叙任及辞令」1891年6月20日。
- ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第7175号「叙任及辞令」1907年6月1日。
- ^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
- ^ 『官報』第2330号「叙任及辞令」1920年5月11日。
- ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
- ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ a b 『官報』第2648号「叙任及辞令」1892年4月29日。
- ^ 『官報』第3917号「辞令」1896年7月20日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ a b 井上勝之助 (男性)『人事興信』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 千田稔『華族総覧』講談社〈講談社現代新書〉、2009年。
- 「外務省月報(大正五年六月分)/職務進退」 アジア歴史資料センター Ref.B13091349600
外部リンク
編集- 井上勝之助略伝『世外井上公伝. 第五卷』1934年
- ヨーロッパの情報収集の達人 井上勝之助-『外交』6号、外務省外交史料館
公職 | ||
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先代 戸田氏共 |
式部長官 1921年 - 1926年 |
次代 伊藤博邦 |
先代 久我通久 |
宗秩寮総裁 1917年 - 1921年 |
次代 倉富勇三郎 総裁事務取扱 |
日本の爵位 | ||
先代 井上馨 |
侯爵 井上(馨)家第2代 1915年 - 1929年 |
次代 井上三郎 |