宗夬(そう かい、456年 - 504年)は、南朝宋からにかけての政治家軍人は明揚。本貫南陽郡涅陽県

経歴

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西中郎諮議参軍の宗繁(宗炳の子)の子として生まれた。若くして学問にいそしみ、弱冠にして郢州の秀才に挙げられて、臨川王常侍・驃騎行参軍をつとめた。斉の竟陵王蕭子良が西邸に学士を集めると、宗夬もこれに参加した。永明年間、北魏との和親のため、尚書殿中郎の任昉とともに北魏の使者の接待にあたった。

南郡王蕭長懋の下で管書記をつとめた。永明11年(493年)、文恵太子蕭長懋が死去すると、その子の蕭昭業皇太孫となったため、宗夬はそのまま管書記となった。蕭昭業が即位すると失政が多かったため、宗夬は自ら申し出て秣陵県令に降格し、尚書都官郎に転じた。隆昌元年(494年)7月、蕭昭業が殺害されると、その寵遇を受けた者たちの多くは禍難に遭ったが、宗夬と傅昭のみが免れた。

建武元年(494年)10月、明帝が即位すると、宗夬は郢州治中となった。永元元年(499年)、南康王蕭宝融荊州刺史となると、宗夬は召されて別駕となった。永元2年(500年)、蕭衍が起兵すると、別駕のまま西中郎諮議参軍に転じた。蕭衍の軍が雍州を発つと、宗夬は蕭穎冑の指示で楊口から出て、蕭衍に面会して戦略を相談し、軍資の護送にあたった。中興元年(501年)、御史中丞に転じたが、父が死去したため職を辞した。冠軍将軍・衛軍長史として再び起用された。天監元年(502年)、冠軍将軍のまま征虜長史・東海郡太守に転じた。天監2年(503年)、太子右衛率として召された。この年の冬、五兵尚書に転じた。

天監3年(504年)、死去した。享年は49。

子の宗曜卿が後を嗣いだ。

伝記資料

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