安西マリア

日本の歌手、女優 (1953-2014)

安西 マリア(あんざい マリア、1953年昭和28年〉12月16日 - 2014年平成26年〉3月15日[6][7][8])は、日本歌手女優東京都出身[8]。本名、柴崎 麻利子[2][9][10]。B80cm、W56cm、H82cm(1974年1月)[11]。身長158cm、B85、W57、H85[5]血液型A型。趣味は映画鑑賞、ゴルフネイルアート、特技は英語。死亡時点での所属事務所は10-POINTだった。

あんざい まりあ
安西 マリア
本名 柴崎 麻利子[1]
生年月日 (1953-12-16) 1953年12月16日
没年月日 (2014-03-15) 2014年3月15日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本東京都大田区[2]
死没地 日本の旗 日本・東京都
血液型 A
ジャンル 歌手、タレント
活動期間 1973年 - 1978年[3]
2000年頃 - 2014年[4]
主な作品

ドラマ
大江戸捜査網
受賞
第15回日本レコード大賞新人賞受賞[5][3]
備考
身長158cm B85、W57、H85[5]
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来歴・人物

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生い立ち

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東京都大田区北千束生まれ[2]ドイツ人とのクォーター(祖父がドイツ人)とする記事は[4][12][13]少し違い、『財界にっぽん』1977年1月号で、安西自ら「母方の祖父が日本とドイツの混血なので8分の1の混血です。ドイツ語は喋れません」などと話している[2]。また「歌手なんかにはちっともなりたくなかった。父がパンナムの極東支配人なので、私も英語スクールに真面目に通ってパンナムのサービス関係の仕事をしようと思っていました」と言う[2]一人っ子[2]

大田区立赤松小学校[2]大田区立大森第六中学校[2]大東学園女子高等学校卒業後[2]1972年10月[10]銀座クラブ「徳大寺」で働いているところを上条英男スカウトされる[13][14][15][16][17][18][19][注 1]。銀座でホステスをやっていたことは、デビュー当初は隠していたため[11]、「高校卒業後、ブラブラしているところをスカウトされる」[11]と書かれた文献や、『財界にっぽん』1977年1月号では、安西自ら「高校3年の時、日比谷の美容院に行き、ケーキが食べたくなって喫茶店に入り、そこでスカウトされました」と話している[2]

芸能界へ

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1973年、“チョコレート・マリア”のキャッチフレーズ[3][13]シングル涙の太陽」(エミー・ジャクソンのカバー曲)で歌手デビュー[3][13][17]。ハワイで焼いた小麦色の肌から[2]、「灼熱の恋人」と言われた[2]。このデビュー曲で50万枚以上を売り上げるヒットを記録[3]。同年(昭和48年度)大晦日第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞[3]。同じく新人賞を受賞したのは安西の他に桜田淳子(最優秀新人賞を獲得)、あべ静江アグネス・チャン浅田美代子の合計5人(全員女性歌手だった)[2]

エキゾチックな小顔と引き締まったプロポーショングラビアにも登場して男性を魅了[18]。また音楽面でも高護は、「おしゃれな身のこなしと天性のリズム解釈は、いわゆる修練した『歌手』とは別の地平から生まれたもので、1974年の第5弾シングル「恋の爆弾」はバッド・ガール歌謡のひとつの完成型といえる」と高く評価している[17]

1975年7月リリースのシングル「涙のジャニー・ギター/モナリザ」と、同名のアルバムを最後に東芝からビクターに移籍[13]

1975年、美容室の器械で背中に火傷に遭う[2]

ヒット曲は出なくなり[9][14][21][22]映画テレビ女優として活躍[9]1976年松田優作主演の東映映画暴力教室』で生徒にレイプされる女教師を演じる[13]。同年「ホリプロ」傘下の芸能事務所から「竹野エージェンシー」に移籍[9][14][19][20][23]。これは安西が希望したもので[23]、2年後の裁判時に竹野が強気に出た理由の一つ[23]。同社の社長・竹野博士は、東映仁義なき戦い』登場人物のモデルにもなった人物[9][14][18][20][23][24][25][26][注 2]。また阪神タイガースに所属したこともある元プロ野球選手[22][25][27]。後述する竹野が逮捕された際に警視庁からマスメディアに竹野の前歴が詳細に発表された[21]

失踪事件

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1978年4月8日[14][23]、安西がレコーディングをすっぽかし[16][23]、マスメディアが騒ぎ始めたため[16]、隠しきれないと判断され、4月13日に「竹野エージェンシー」で記者会見が行われ[16][18]、安西が失踪して連絡が取れないと公表された[3][10][16][21][23]。「kマネージャー[注 3]との"恋の逃避行"」などとスポーツ紙女性週刊誌が騒ぎ[14][16][22]、事務所も行方が分からず仕事を15本キャンセルした[9]。翌4月14日[9]、安西の父が玉川署に娘の家出人捜索願を出した[9][14][23][注 4]。捜索願の提出を母親が渋っていたため、竹野は安西マリアは両親には居場所を知らせているのではないかと疑いを持ち、母親に「Kマネージャーはある会社の金を持ち逃げしている。このままだとマリアも共犯の疑いをもたれる」と電話したら、折り返し母親から「Kマネージャーはその会社と連絡を取って返金を約束している」と話したという[16]。この騒動に周防郁雄バーニングプロダクション社長は「例え本人が現れて謝罪しても、多くの人に迷惑をかけた今回の行動は許されるべきではない。周りの人はマリアに引退勧告すべきだし、レコード会社もすぐ新曲を中止にするべきです。厳しすぎるかも知れませんが、そうすることが芸能界の将来にプラスになると思います」と述べた[16][18]。1978年4月21日に失踪が報じられていた安西と元マネージャーKが弁護士を伴って麻布署に現れ[18]、「暴行、強要に被害届」を提出[9][19][23]。この告訴によって竹野は、5月6日に警視庁組織犯罪取締本部と麻布署に暴行、強要の疑いで逮捕され[9][14][16][22]、48時間警察勾留の後、10日間の検察勾留、1978年5月17日から公判に入り[16]、竹野が過去、暴力団の組長だった経歴も明らかにされた[9][14][20][23][24]。事務所とのトラブルも発覚し裁判沙汰となり[3][12][13][18][23]、安西が法廷で、芸能界の内幕を暴露する証言を行い[10][14]、芸能史に残る大事件に発展した[23]

1978年5月17日から公判に入り[16]、同年8月7日、東京地裁刑事二十一部で行われた第二回公判では、安西が失踪から4ヵ月ぶりに人前に姿を現し[20]ロッキード公判並みの報道陣が東京地裁前に押し寄せた[20]。安西は検察側証人として証言台に立ち、「芸能界は既に引退している」と話した上で[24]、芸能界の内幕を暴露する証言を行った[9][10][24][注 5]。 これに対抗して1978年9月22日にあった第5回公判で、竹野側から反論があり、暴露合戦の泥試合となった[注 6]。実父が竹野と裁判所以外で交渉を持った際、足を洗った竹野が実父を追い払い強気に出た[23]。Kマネージャーは妻子のある身であるのにもかかわらず[16]、看板タレントに手を出し、会社の金の使い込みも発覚し[16]、竹野が暴行を働いたのも事実で[3][23]、安西は竹野が怖くて逃げ出したものだったが、当時の芸能界関係者は元ヤ〇ザはザラ[23]毎日新聞記者牧太郎は「芸能界の一部は暴〇団的体質に汚染されている。捜査当局は暴〇団員か準構成員とみなしてる芸能プロ関係者は10人を超す」と話していた[14]。竹野の経歴はベテラン芸能記者には周知の事実で、安西・Kマネージャーとも芸能界での評判が良くなかったことから[15][21][22]、安西側を擁護する論調はマスメディアからはほとんど出なかった[15][20][22][23]竹中労は「芸能界に実演というものがある限り、暴〇団と手を切ることは出来ない相談なんです。芸能プロ側も実演なしでは食っていけない。一流タレントでもテレビの出演料は僅かです。レコードが売れても音楽出版権は各テレビ、ラジオ局が作った音楽出版社にほとんど取られてしまう。原盤権歌唱印税も群がる関係先に吸い取られてしまう。ところが実演は日だてで、200万は上がる。そういう実演を引き受ける興行屋のほとんどは暴〇団か、それに深い繋がりを持つからです」などと解説した[22][23]加東康一は「どっちもどっちの五十歩百歩ですね。問題のポイントは芸能界の体質です。マネージャーと称する人たちが安月給でタレントと組んで"職内"[注 7]を公然とやっていることも事実です。今回の問題はそれがさらに高じて芸能事務所としてはタレントがマネージャーと組んで独立するのを怖れるからなんです。この両者の組み合わせで独立し、最後はマネージャーが捨てられた例はいくらでもありますね。このパターンは戦後芸能界の歴史みたいなものです」などと解説した[25]

1978年5月17日から数度公判を重ねて[16]、翌1979年1月19日、東京地裁が竹野に懲役10ヶ月(執行猶予3年)の判決を言い渡した[12][14][18][注 8]。1979年6月25日、竹野が控訴を取り下げ有罪が確定した[14][18]。竹野が4ヵ月に及ぶ勾留生活を続けたこと、以前は暴力団幹部だったが、以後は正業を務めていたこと、事件によって竹野の事務所は活動停止に追い込まれ、社会的制裁を受けていることを考慮し[16]、予想外に軽い判決が言い渡され、詰めかけた報道陣も間からどよめきが沸き起こった[16]。安西の失踪から裁判まで、一連の事件は週刊誌だけではなく、全国紙でも大きく報道され、竹野が元暴〇団員であることも詳しく書かれた[9][14]。竹野は翌1980年に再び芸能事務所を興し、芸能界に復帰した[18]

芸能界引退~復帰

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公判期間(1978年5月17日[16]~1979年6月25日[14])中の夏に法廷で安西の口から「歌手」の言葉が出て[24]芸能界を事実上引退し[3][12][18]ハワイへ移住した[3][12][13]1983年に先のKマネージャーではないデビュー当時のマネージャーで芸能事務所社長と結婚し[3][12][13][18][22]、帰国し一男をもうけるが[22]、4年で離婚[3][22]1999年に知人に頼まれ、六本木ライブハウスで歌を再開し、マスメディアに取り上げられたことから[22]、芸能界に復帰し[4][12][17]ジュエリーの発表やライヴショーなどの活動を展開[12]2013年にテレビ番組で自らうつ病を発症していたことを告白した[4]

2014年3月8日午後、所属事務所より詳細な病状がFAXで報道各社に報告された[29]。2月20日に自宅で異常を訴えて救急搬送され、搬送直後に急性心筋梗塞と診断された[29]。3月8日の安西の所属事務所からのFAXの時点で自力呼吸は出来る状態であるとされていた[29]。同日午前のスポーツニッポンの報道で、安西は約1時間にわたって心臓が停止し一旦は蘇生したが、脳死状態に移行したことが報じられた[4]。 翌週3月15日夜、都内の病院で急性心筋梗塞のため死亡[7]。翌16日に安西の所属事務所より公表された[6][7]。60歳没。

突然の死に、安西と同じく1973年末の日本レコード大賞・新人賞を獲得したアグネス・チャンあべ静江の2人も共に大きなショックを受け、各自身のブログで哀別のコメントを発表した[30]

ディスコグラフィ

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シングル

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# 発売日 A/B面 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格品番
東芝音楽工業→東芝EMI
1 1973年
7月5日
A面 涙の太陽 湯川れい子 中島安敏 川口真 TP-2870
B面 砂に消えた涙 漣健児 P.Soffici
2 1973年
9月20日
A面 愛のビーナス 千家和也 鈴木邦彦 TP-2916
B面 泪にかえて
3 1974年
1月20日
A面 針のくちづけ 鈴木邦彦 TP-2975
B面 誘惑の年頃
4 1974年
5月5日
A面 早いもの勝 TP-20003
B面 ためらう年頃
5 1974年
9月5日
A面 恋の爆弾 安井かずみ かまやつひろし 柳田ヒロ TP-20049
B面 エンド・マーク
6 1975年
3月20日
A面 あなたに敗けそう なかにし礼 井上忠夫 川口真 TP-20115
B面 遠い愛情
7 1975年
7月20日
A面 涙のジャニー・ギター V.Young TP-20159
B面 モナリザ J.Livingston
ビクター
8 1976年
8月1日
A面 サヨナラ・ハーバーライト 橋本淳 響わたる あかのたちお SV-6039
B面 海辺の誘惑
9 1976年
12月1日
A面 センチメンタル・グループ・サウンズ 馬飼野康二 SV-6126
B面 やけっぱちロック
10 1977年
7月1日
A面 南十字星 中山大三郎 高田弘 SV-6232
B面 想い出のサンセット
11 1978年
2月1日
A面 恋のスイング 来生えつこ 来生たかお 水谷公生 SV-6360
B面 アイ・ウォント
アイ・ニード アイ・ラブ・ユー
荒木一郎 アイ高野 萩田光雄
その他のシングル
  • ひと足お先に(1978年、ビクター)※幻のラスト・シングル

アルバム

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  • マリア登場 / 涙の太陽(1973年8月5日、東芝音楽工業)
  • 早いもの勝 (1974年、東芝EMI)
  • 涙のジャーニー・ギター (1975年、東芝EMI)
  • マリア・グラフィティ (1977年、ビクター音楽産業)
  • 夏はケ・セラ・セラ(2006年7月1日/ベルグ、BERG-1216)

出演

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映画

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テレビドラマ

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ビデオ・DVD

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写真集

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脚注

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注釈

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  1. ^ 後述する裁判の第二回公判で、安西は証言台に立ち、竹野側の弁護士の反対尋問「あなたは銀座で上条英男さんにスカウトされたそうですが、徳大寺というクラブに勤めていたことはありませんか?」という質問に対して「1年ぐらい前の夏ちょっとアルバイトをしていました」と答えた[20]。「徳大寺」のママ・徳大寺美瑠は「私とマリアの付き合いは古いのよ。マリアがうちに来たのは確か彼女が18歳の時かなあ。初めは髪を赤く染めて、いかにもハーフっぽい感じだった。奇麗には違いないけど、特別モテる、というほどでもなかった。マリアはお店で『アルバイトをしていた』と裁判所で証言したらしいわね。本当は正従業員よ。2年近くホステスとして働いてもらったわ。当時、ゴーゴーの全盛期で、マリアはお店では歌も踊りもやっていたわ。シースルーを着て…。彼女、オ〇パイが小さいから、ブラジャーをつけてはいたけど、腰はおしりが見えそうなくらいスケスケドレスよ。踊りは上手だったわあ。でも歌の方は…。歌といえばマリアと同期の風吹ジュンはお店では『レオ』と呼んでたけど、歌は『あんたもうやめて!!』という感じ。でもプロポーションが良くて、踊りはスネークぽい独特なもので人気の的だった…。マリアはお店でも古株で、かなりエバっていたわね。私と一緒に行動する機会も多く、性格も親分膚だから一目置かれていたわね。そういうことが『ズベ公だった』と芸能週刊誌に書かれた遠因かもしれないけど(中略)私は彼女たちを自由にさせていなかったつもりだけど、やっていたわねえ。どういう風に合間を見つけるのか…。『アラッ』と思った時はみんな手遅れ。そんな女の子たちの中でマリアは恋愛に関しては一本筋が通っていたわね。あの娘はワンタイムでも、遊びと分かる恋愛は絶対にしなかったわね。それに自分にプライドを持っていた。だから、裁判の証言で問題になっているけど、作詞家の先生から『社長と寝てみろ』と、もし本当に言われたとすれば、アタマに来る娘よ、マリアは。もちろん作詞家の先生にしても、マリアがレコーディングに遅刻してきたり、とかく乱れ勝ちなので、『もうちょっとマルくなれ』という意味のことを言ったのでしょうが、マリアは、恋に燃え易いタイプであっても、そういうことは絶愛イヤ、という娘なのね、きっと。まあ、今のOLは水商売の女性以上に乱れていると言われていますけど、でも昼間仕事をさせた時は、ちゃんと礼節をわきまえていますよね。夜の仕事の場合、きちんとしなくても許される土壌があるから、その水につかってしまうと、他の仕事に入ってもうまくいかなくなるもの。だからレオにしても五十嵐淳子にしても、マリアにしても水商売出身だからだらしがないと言われるのが私には悔しくてしょうがない。昔はだらしなかったかもしれないけど、今はきちんとやっている、といわれるタレントになって欲しい。結局ウチの店から歌手として芸能界にデビューし、最後まで残ったのが安西マリアだけで、それが今度の裁判沙汰でしょう。『徳大寺』も失格かなあ、なんて自分が恥ずかしい思いなの。今度の事件の真相は私には分かりませんが、発端は、両者の感情的な対立が最大の原因だと思うわね。マリアも25、6歳になったとはいえ、まだ子供だし、わがままなところがあるから引くに引けなくなった、ということじゃないかしら」などと話した[15]
  2. ^ 仁義なき戦い 完結篇』の劇中、松村保(演:北大路欣也)が、1969年に大阪西成南海天王寺線今池町駅付近の踏切で銃撃を受けるシーンがあるが、竹野はこの車にも同乗した元広島ヤ〇ザ[9][14][15][20][26]。共〇会No.3にあたる理事長[15]。1972年3月頃まで同会の中心人物として采配を振るい[14]背中一面に般若イレズミをし、暴〇団仲間からも恐れられていた[14]。「ヤ〇ザの世界に嫌気が差した」と再婚した妻と子のために脱会届を出し、足を洗ったことになっていた[14][20][24]。竹野の妻の姉の夫が東〇のプロデューサー―でそのツテで芸能事務所を興した[15]T&Cオーナー小川薫は「今回の事件はわしは一切関係ないが、竹野は広島でもわしの近所に住んどった幼馴染みなんよ。今も近所に住んどって仲良しなんじゃ。今は2人の娘にイレズミ見せとうないゆうて、海水浴でも裸にならん。真面目に生きとるのに、今回はKという悪い奴とア〇ズレにまんまとはめられたの」などと話した[25]
  3. ^ 1978年2月10日に会社の金の使い込みが発覚したため、同年2月16日付けで「竹野エージェンシー」をクビになっていた[16]
  4. ^ 玉川署の刑事も当初から安西マリアは両親の間には実際には連絡があり、捜索願いは狂言ではないかと疑問視していた[16]。刑事から両親がこの点を問い詰められ、同年5月18日、両親が捜索願い取り下げる[16]
  5. ^ 東京地検検事の主尋問、ならびに弁護士らの反対尋問に対する安西の証言。「竹野社長は広島の暴〇団・共〇会の元理事長で、前の事務所から竹野エージェンシーに移籍する際に800万円の違約金を請求されたが、竹野が『芸能界で背中のイレ〇ミを使ったのはこの時だけだ』と言っていた。その前から広島に仕事で行くと空港に一目でそれを分かる暴〇団風の男が出迎えていた」「Kマネージャーと1977年9月頃から親密な関係になり、恋愛感情があった。社長にはいずれ話すつもりだったが、芸能界ではマネージャーと関係することはタブーですし、マスコミに取り上げられては仕事に困るので言えなかった」「2年目の契約更新の際に月給100万円の増額を申し入れ、多少のいざこざがあったが竹野社長はそれを飲んだ。月平均の給料はクラブ出演の多い時は300万円を超えていると思います」「Kマネージャーの女性関係で"目黒の女""恵比寿の女""大阪の女"について聞いたことがありますか?」安西「"目黒の女"については聞いたことがあります」「Kマネージャーにキャッシュカードを貸したことがあります」「1978年の正月に例年通りハワイに行ったがレギュラー出演している『大江戸捜査網』(東京12チャンネル)の録画取りが1978年1月9日にあったが、席の予約が取れず帰って来たのは1月9日の夜で録画取りに穴を開けた。竹野社長に泣いて謝ったら『3,000万円ぐらいの賠償金が取られても文句は言えないんだぞ。お前のところに請求が行くよ』と言われて震え上がったが、翌日に三船プロダクションに謝罪に行くと『済んだことは仕方ない。これからは気を付けて欲しい』と言われただけだった」「1978年4月8日の前の1978年2月2日にKマネージャーとホテルニューオータニに宿泊し、翌日2月3日は成城の三船プロダクション『大江戸捜査網』の撮影現場(ロケが朝9時に出発予定だった)に交通渋滞に巻き込まれ、集合時間に50分遅刻し、同じ番組に2度目の遅刻をした。2月3日の夜に竹野社長にKマネージャーが事務所に呼ばれ、遅刻の責任と安西との仲を問い詰められ暴行を受けた。またその後母親ともども事務所に呼びつけられ、竹野から『ゆうべどこに行ってたんだ!』と怒鳴られ、『奥〇〇ヨがウチへ入れてくれと言ってきている。〇ヨの方がよっぽど稼げるのにお前を使ってやってるんだ。よそじゃ100万なんて給料やってるとこなど、どこにもない。さんざん面倒見て来たのに裏切るのか。ワシゃ前科24犯(実際には5犯)じゃ。人を殺すことなんか、何とも思うとらんのじゃ。こうなったら広島から若いもんを連れて来んにゃならんのう』と言われた」「翌2月4日に竹野から電話があり『給料を半額の50万円にする」と言われた。反論したかったが怖い目に遭っていたので『ハイ』と返事した。1978年4月4日に新曲「太陽は泣いているセンセーション'78」(安西が同曲をリリースすると報道されただけで、各地のレコード店から何万枚もオーダーが入り、発売前からヒット間違いなしという状況だった。1978年5月25日発売を予定していたが、ピンチヒッターとして山内絵美子が起用された[16])の衣装合わせのために竹野社長の運転する車で青山に行く途中、同乗した作詞家の人から『社長を舐めるのも程がある。君が社長と上手くやってくれないと困る。社長と仲良くなるために寝てみたらどうか』と言われました。竹野社長が『人なんか〇したってコンク〇ートつめにして海に投げれば分かりやしない』とビ〇ターの方から聞いていたから、恐ろしくてたまりませんでした。心も動揺して耐えられなくなり、失踪する結果になって…』などと証言した[9][10][14][16][18][20][24]。1978年8月7日の第3回公判では安西は新曲の作詞家から「ノーブラで勝負しろ」と言われたと証言した[20]
  6. ^ 当時安西の父親はパンナム航空社員と伝えられていたが[23]、この人は養父で[20]、実父は竹野同様、暴〇団絡みの[20]興行師で当時はフィリピン在住、給料の減額要求は、2人が事務所を通さずやったアルバイトの100万円をすぐに返して事務所を辞めるか、半額にして事務所に残るかの条件を提示したもので[16]、契約の残っている1978年末までトラブルを起こさなけば来年以降は自由にさせるという付帯事項も付けた、これに安西側から「減額でいいから事務所に残して欲しい」という申し出があった[16][20]、「今度はあんたに不始末があったんだからしょうがない。一生懸命やれば、また給料を上げるからと言ったら、マリアは『ありがとうございます。よろしくお願いします』と言った」[20]、「Kマネージャーの金を使い込みが分かったので、懲らしめるためにセルロイド靴べらで3~4回顔を叩いた」[16]、「竹野社長のイレズミを地方のホテルでマッサージをしていた時、安西が見て『今どきイレズミなんて怖くないわ。カッコいいじゃない』と言った」[20]、「Kマネージャーは安藤昇の元マネージャーだったTに安西を「竹野エージェンシー」から引き抜いて新しい事務所を興せないか相談されていた」など[9][14][20][23][24]
  7. ^ 地方巡業の出先で予定外の出演をさせて謝礼を事務所に入れず、タレントと折半などをすること[25][28]
  8. ^ 給料を減額した契約書にサインさせたとする強要罪については、裁判官より「芸能界ではタブーとなっているマネージャーとタレントの関係を知って、制裁的に給与を減らしたもので、強要の犯意があったと見るのは困難」として同罪については無罪となる[14]

出典

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  1. ^ 安西マリアさん死去=歌手「涙の太陽」がヒット-60歳 - 時事通信 2014年3月16日
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「新春特別企画 村井恒夫VS安西マリア 『歌にドラマに演技派めざして』」『財界にっぽん』1977年1月号、財界にっぽん社、30–35頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 脚光、失踪、離婚…安西マリアさん、波乱万丈だった生涯 - スポーツニッポン 2014年3月16日
  4. ^ a b c d e “安西マリア 脳死状態 延命措置取らず”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2014年3月8日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/08/kiji/K20140308007732670.html 2014年3月16日閲覧。 
  5. ^ a b c 10-POINT|安西マリアプロフィール(Internet Archive)
  6. ^ a b 安西マリアさん死去…先月20日に心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人に - スポーツニッポン 2014年3月16日
  7. ^ a b c 安西マリアさん死去 60歳 - デイリースポーツ 2014年3月16日
  8. ^ a b 歌手の安西マリアさん死去 ヒット曲「涙の太陽」 - 朝日新聞 2014年3月16日、追悼2014 もう一度、逢いたくて
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “歌手の安西マリアさん失踪”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 23. (1978年4月15日) 「所属プロ社長逮捕 安西マリア失踪事件 脅して給料を半分に」朝日新聞、1978年5月12日、p.23、「芸能界はこわかった 安西マリア涙の証言 脅され減給契約 "タブー"にがんじがらめ 東京地裁」朝日新聞、1978年8月8日、p.23、
  10. ^ a b c d e f 「身の危険を感じて失跡 安西マリア証言全録 "裸で勝負"はブラジャーを取ること?」『講演時報』1978年8月下旬号、連合通信社、10–14頁。 
  11. ^ a b c “『フィンガー歌手 ナナヨン型もよろしく 福を招こう』 お見通しです 金井克子 B89cm、W58cm、H91cm ねらい撃ちョ 山本リンダ B86cm、W58cm、H89cm おいでおいで 夏木マリ B90cm、W60cm、H90cm オー女神さま 安西マリア B80cm、W56cm、H82cm 8年目の浮世 内田あかり B85cm、W58cm、H80cm ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1974年1月3日) 
  12. ^ a b c d e f g h 危篤1カ月 安西マリアさん死去
  13. ^ a b c d e f g h i リットーミュージック 2021.06.01 セクシー歌謡全盛時代(3) 「第3の女」 安西マリアの行状録
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v “歌手の安西マリア行方不明”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 20. (1978年4月15日) 牧太郎 (1978年5月12日). “安西マリア"失踪"事件 所属プロ社長が脅し、怖くなって 遅刻とがめ『給料半減』 マネージャー殴り母親にもすごみ 契約書にサインさす またも黒い芸能界" 竹野は元『共〇会』理事長”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 23 「プロダクション社長に懲役一年求刑 安西マリア脅迫事件」毎日新聞、1978年12月19日、p.18、「竹野に執行猶予判決 安西マリア事件」毎日新聞、1979年1月20日、p.20、「竹野の有罪確定 安西マリアさんの脅迫事件」毎日新聞夕刊、1979年6月26日、p.6
  15. ^ a b c d e f g 「安西マリア失踪事件の真相 元暴〇団幹部だった所属プロ社長の素顔」『週刊サンケイ』1978年6月1日号、産業経済新聞社、27–28頁。 「スキャンダルの内幕 クラブ『徳大寺』のママが語るホステス時代の安西マリア」『週刊サンケイ』1978年8月31日号、146–147頁、
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「真相追及 安西マリアが突然謎の失踪! 仕事上のトラブルか恋の逃避行か!? 彼女の失踪事件の裏に、恋人といわれる、ある男性が……」『週刊平凡』1978年3月27日号、平凡出版、32–35頁。 「独占詳報 安西マリアの失踪事件に新たな謎が… 暗闇部分にメス! 新曲の発売も中止、歌手生命もいまや絶望的。それでも恋人と逃亡生活をつづける本当の理由とは…」『週刊平凡』1978年5月4日号、35–38頁、「独占 失踪した安西マリアの留守宅に空巣事件が…」『週刊平凡』1978年6月1日号、39–42頁、「速報PART2 注目の安西マリア失踪事件ついに判決! 竹野被告に懲役10ヶ月執行猶予3年 使い込みをしたマネージャーをこらしめた被告が悪いのか、そのマネージャーと仕事をすっぽかして失踪したマリアが悪いのか?」『週刊平凡』1979年2月1日号、146–147頁。
  17. ^ a b c d 高護『Hotwax presents 歌謡曲名曲名盤ガイド 歌謡曲番外地 Vol.1』シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、44–45頁。ISBN 978-4-401-75112-9 
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m 伝説の歌姫・安西マリア 「お蔵入りヘアヌード写真集」解禁風吹ジュンは誘拐されホテルで軟禁… 昔、芸能人の事務所移籍はこんなに大変だった《脱法芸能15》安西マリア失踪事件(1)──露呈した芸能界の暴力団汚染芸能記者稼業 血風録 安西マリア「愛の逃避行」を追ってマスコミはカーチェイス【premium限定連載】芸能評論家・二田一比古の芸能ゴシップ 今昔物語芸能取材で暴力団に邂逅――安西マリアとコワモテの“点と線”と古き良き芸能界60歳で逝った故・安西マリアさんの心残り夜の世界から華麗なる転身!シンデレラ芸能美女7人の現在故・安西マリアさんが先駆けとなったお水からの芸能界転身60歳で逝った故・安西マリアさんの心残り再始動「山口真帆」の通信簿 被害者が“悪”にされる芸能界を変えた功績は大
  19. ^ a b c 吉田豪「上条英男インタビュー」『超 人間コク宝』コアマガジン、2020年、35–48頁。ISBN 978-4-86653-435-0 
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「速報 安西マリア涙の証言の嘘と真実!! 謎の失踪から4ヵ月 8月7日午後2時、東京地裁で注目の第二回に初出廷…」『週刊明星』1978年8月20日号、集英社、24–31頁。 「追跡第2弾 安西マリア暴露証言の当事者が肉声告白 対決の核心が今明るみに…」『週刊明星』1978年8月27日号、169–171頁、「安西マリア事件・9月7日愛人出廷 K証言の暗部を追う 前代未聞!廷内大逃亡2時間 『昨年9月から肉〇関係』を自ら暴露」『週刊明星』1978年9月24日号、31–33頁、「安西マリア事件急展開! 竹野社長保釈 被告側総反撃で核心に!」『週刊明星』1978年10月15日号、34–35頁、「この人の愛憎・明暗(3) 安西マリア姿を消して6ヶ月目謎の行動… "銀座ホステス志願"情報を追う!」『週刊明星』1979年2月8日号、36–37頁
  21. ^ a b c d 「ThisWeek 安西マリアの失踪で、また露呈した芸能界の乱脈ぶり」『週刊文春』1978年4月27日号、文藝春秋、24頁。 「『駆け落ち』から『恐怖の逃避行』に一転 安西マリア失踪事件の消えない疑問」『週刊文春』1978年5月25日号、148–149頁。
  22. ^ a b c d e f g h i j k 菊地正憲「昭和&平成芸能界13の『黒い履歴書』『社長と寝ないと殺されると思った…』安西マリア失踪事件」『新潮45』2007年4月号、新潮社、46–48頁。 「総力特集 一挙50人! あの「主人公」はいま 歌手・俳優 安西マリア、能瀬慶子、倉田まり子、渋谷哲平」『新潮45』2004年10月号、47–48頁。
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「安西マリアの社長が『暴力団』だなんて一言もいわなかった芸能記者」『週刊新潮』1978年5月25日号、新潮社、35–41頁。 
  24. ^ a b c d e f g h “安西マリアさん失踪”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 22. (1978年4月15日) 「安西マリア失踪事件 芸能プロ社長を逮捕 脅して給料半減 ビデオ撮りに遅刻 母親まで呼びつけ」読売新聞、1978年5月12日、23頁、武井和亮 (1978年5月13日). “タレント食うもぐりプロ つけ込まれる"待遇より人気"”. 読売新聞: p. 7 「芸能界と暴〇団 安西マリアさんが証言」読売新聞、1978年8月8日、22頁、「安西マリア事件に有罪」読売新聞、1978年9月3日、27頁、「タレントリサーチ」読売新聞、1979年1月20日、22頁
  25. ^ a b c d e 「〈ワイド/話題人間の艶聞怏談〉 3 法廷で明らかにされた芸能界の"内幕"と"恥部" 安西マリアの『作詞家に寝ろと言われた』発言の波紋」『週刊ポスト』1978年8月25日号、小学館、33–34頁。 「芸能界の恥部を抉る 安西マリア失踪事件で露呈したタレントとプロダクションの危険な関係…」『週刊ポスト』1978年6月2日号、38–41頁、「芸能誌にのらない芸能スクープ 安西マリア恋の逃避行『ハワイ生活』を特撮!…」『週刊ポスト』1981年1月16日号、40–41頁。
  26. ^ a b 芹沢耕二 著、創雄社・実話時代編集部 編『実録「仁義なき戦い」・戦場の主役たち これは映画ではない!』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、1998年2月1日、25、40、132–135、154–156頁。ISBN 9784896913026NCID BA38103214OCLC 166637371 【本編公開20分】伝説の親分②元三代目共政会理事長 竹野博士が語る広島抗争
  27. ^ 竹野博士 | 在籍選手成績 | 80周年史
  28. ^ ライフ・イズ・マジック 種ありの人生と、種なしの人生と。太田光がカラテカ入江の「職内」についてキワどいトーク連発「滅多なこと言うもんじゃないな」
  29. ^ a b c 安西マリア、所属事務所が詳細を報告「予断を許さない状況」 搬送直後は「急性心筋梗塞」と診断 - オリコン 2014年3月8日
  30. ^ 安西マリア死去!「まだ実感がわかない」(あべ静江)、「ショックで言葉が見つからない」(アグネス・チャン)- J-CAST 2014年3月8日

外部リンク

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