安藤重博
安藤 重博(あんどう しげひろ)は、江戸時代前期の大名。上野国高崎藩の第3代藩主、備中国松山藩の初代藩主。官位は従五位下・対馬守。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永17年(1640年) |
死没 | 元禄11年8月9日(1698年9月12日) |
戒名 | 定恵院不嘔覚海 |
墓所 | 東京都品川区東海寺定恵院 |
官位 | 従五位下、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、老中 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 上野高崎藩主→備中松山藩主 |
氏族 | 安藤氏 |
父母 | 父:安藤重之、母:藤堂高次の娘 |
妻 | 戸田光重の娘 |
子 | 小出英益正室、信友、酒井忠寛正室 |
略歴
編集安藤重之の長男として誕生した。
明暦3年(1657年)、祖父で先代藩主である安藤重長の死去により跡を継いだ。寛文4年(1664年)2月に奏者番となる。後に老中に栄進したため、元禄8年(1695年)5月に5000石加増の6万5000石で備中松山藩に移封されたが、過酷な検地を行なって領民を苦しめたと言われている。
系譜
編集父母
正室
- 戸田光重の娘
子女