安住伊三郎
安住 伊三郎[1](あずみ いさぶろう、1867年2月27日(慶應3年1月23日)[2] - 1949年(昭和24年)8月31日)は、日本の実業家。安住大薬房社長[3][4][5][6]。タイ国名誉領事[7][8]。幼名は猪之助[9][10]。
経歴
編集鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身[1][5]。安住文四郎の二男[6]。家が貧しかったため縄をない、自ら学資をつくる[1][9]。
1897年、兄瀧蔵方より分れて一家を創立する[4][8]。岡山県真島郡落合町の酒造家・木村良江に養われる[9]。13歳の頃、鳳鳴社という塾に入り、進昇山に就き、漢籍を学ぶ[7][10]。
1888年、22歳の頃に大阪の安東久次郎の薬舗の店員となり、5年後自ら独立して売薬業を営む[1]。1893年、幼名猪之助に因む猪印のノミ取粉と安住蚊取り線香の製造販売を創める[1][6]。
人物
編集幼少の頃、縄をない、自ら学資をつくった伊三郎は村の者から「かわいそうだ」といわれ、値段を倍に買ってくれたためようやく筆紙墨を買い、小学校に入ることができたという[10]。
『実業の世界』からの「あなたは25歳の頃に何をしていたか。その当時の収入及び生活状態はどうだったか」という問いに安住は「25歳の時は大阪で売薬屋に奉公して一生懸命主家製品の拡張に努力して居りました。その時の収入は5円頂戴して満足して居ました。今の人は気楽で多く給料を望み而も働くことが嫌いな人が多いから出世する人が少ないには困ったものです」と回答している[11]。
宗教は真言宗[7][8]。性格は綿密、熱誠[6]。趣味は書道[6]、書画[7]。住所は大阪市西淀川区大仁西町1丁目[3]。
家族
編集- 安住家
脚注
編集- ^ a b c d e f 『鳥取県人名鑑 昭和5年版』6 - 7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第5版』あ5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』大阪1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第10版 上』ア1 - 2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c 『明治・大正・昭和日本徳行録 下巻』1170頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c d e 『現代工業人大銘鑑 紀元二千六百年記念出版』921頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』ア1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第12版 上』ア1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c d e 『安住家三慶記念 安住伊三郎君の既往五十年』2 - 6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c d 『安住家三慶披露会之概況』7 - 9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
- ^ 『実業の世界 29(5) 現代暴露號』54頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月26日閲覧。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 光延義民編『安住家三慶披露会之概況』十光社、1918年。
- 『安住家三慶記念 安住伊三郎君の既往五十年』三慶記念会、1918年。
- 読売新聞社編『明治・大正・昭和日本徳行録 下巻』読売新聞社、1929年。
- 鳥取新報社編纂『鳥取県人名鑑 昭和5年版』鳥取新報社、1930年。
- 『実業の世界 29(5) 現代暴露號』実業之世界社、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 『現代工業人大銘鑑 紀元二千六百年記念出版』日刊工業新聞社出版部、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。