姚鼐

1731-1815, 清朝の散文家、能書家

姚 鼐[1](よう だい、雍正9年(1731年) - 嘉慶20年(1815年))は、中国清代散文家能書家姫伝夢穀などがある。堂号は惜抱軒(せきほうけん)で、これにより惜抱先生と呼ばれた。安徽省安慶府桐城県(現在の安徽省銅陵市樅陽県)の出身。古文学を標榜する桐城派の礎を築き、桐城派文人の巨頭といわれた。また、能書家としての評価も頗る高く、柔軟な書風を能くした[2][3][4]

姚鼐

業績・経歴

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姚鼐は清朝一代を通じて第一流の古文作家であった。また、書法においても極めて優れた手腕をもっており、その書は行草・行楷を中心とし、来源には董其昌王献之が指摘される。その行草は董其昌にせまると評され、また、彼の温和な人格が書ににじみでていて、少しも気取らぬ高潔な趣をたたえている。

少年のころより伯父の姚范古典の学を、伯父の友人の劉大櫆(1698年 - 1779年)より古文を学び、乾隆28年(1763年)、科挙に及第した。官は刑部郎中に至るが、病気を理由に辞し、郷里の書院で教鞭を執った。そして、以後40余年にわたり後進の育成に余生をささげた[3][4][5]

代表的な著述に、古文学の大成というべき『古文辞類纂』(こぶんじるいさん、75巻)がある。また、『惜抱軒法帖題跋』(せきほうけんほうじょうだいばつ、3巻)には、王羲之を中心とした晋人法帖に対し、釈文と題跋を収録している。その他、著述は数多くあるが、そのすべては『惜抱軒叢書』・『惜抱軒全集』・『惜抱軒遺書』にまとめられている[2][3][5][6]

脚注

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  1. ^ 鼐の音読みはダイ、ナイ、訓読みは、かなえ。常用漢字ではない。
  2. ^ a b 中西慶爾 p.940
  3. ^ a b c 鈴木洋保 p.217
  4. ^ a b 飯島春敬 pp..823-824
  5. ^ a b 田中謙二 p.186
  6. ^ 中西慶爾 p.556

出典・参考文献

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関連項目

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