姐御 ANEGO』(あねご)は、1988年11月16日に公開された日本映画東映京都撮影所製作[2]東映配給[3]黒木瞳主演・鷹森立一監督[4][5]

姐御 ANEGO
監督 鷹森立一
脚本 中島貞夫
原作 藤田五郎
出演者
音楽 津島利章
主題歌 閔海景(ミン・ヘイギョン)「この世のすべて」(ビクターレコード)
撮影 木村大作
編集 市田勇
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1988年11月9日
上映時間 101分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 3億円[1]
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藤田五郎原作小説『女侠客』の映画化で[2][6]、本格的に女性を主人公とする任侠やくざ映画[7][8]。黒木瞳がヤクザを演じたのは2022年現在まで本作のみ。

キャスト

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スタッフ

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  • 撮影:木村大作
  • 美術:内藤昭
  • 照明:増田悦章
  • 編集:市田勇
  • 整音:伊藤宏一
  • 録音:芝氏章
  • 記録:中嶋俊江
  • 撮影補佐:信坂利文
  • 助監督:比嘉一郎
  • 装置:梶谷信男
  • 装飾:西川由紀夫
  • 背景:西村三郎
  • 衣裳:豊中健
  • 美粧:田中利男
  • 結髪:山田真佐子
  • 音響効果:竹本洋二、和田秀明
  • 擬斗:金田治(JAC)
  • 火薬効果:ブロンコ
  • ヘアーメイク:福田高広
  • 衣裳コーディネーター:堀田都志子
  • 刺青:毛利清二
  • 方言指導:永居光男、河原芳美、川鶴晃浩
  • 演技事務:藤原勝
  • 進行:下戸聡
  • キャスティング:葛原隆康
  • スチール:中山健司
  • 音楽:津島利章
  • 主題歌:閔海景(ミン・ヘイギョン)

「この世のすべて」 (作詞:佐藤純子/作曲:姜仁遠/編曲:川口真

  • 進行主任:宇治本進

製作

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企画

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高岩淡東映専務(当時)が、1988年9月20日に東映本社で行われた映画誌のインタビューで本作について「(1988年)秋は『華の乱』の後、11月後半に『極道の妻たち』とはちょっと異質の『姉御』という作品を出しますが、これはヤクザの親分の夫が殺され、その妻が仇きを打つという話なんです。黒木瞳が主演しているんですが、おとなしい彼女が入れ墨をして姉御役に挑戦する。いま京都で撮影しています。俊藤浩滋さんは『修羅の群れ』とか、『最後の博徒』という実録ものの後、二年ほど修復していましたが、岡田社長(岡田茂)と俊藤さんが話し合っている中に、二人の合作で出来たんです。関西のヤクザ社会の話を基にして作った『緋牡丹博徒』よりもっと厳しいものです。ありがたいことにこれにビートたけし松方弘樹が出てくれるんです。うちのヤクザ映画にビートたけしが出てくれるのは初めてですし、松竹新喜劇の連中も応援出演してくれますが、これは俊藤さんの力でしてね。これは東撮(東映東京撮影所)の『』と同じジャンルの作品ですけど、作る母体が違いますし、一種のゲリラ映画ですが、これも大きな目玉になるのではないかと思います」と述べている[4]。岡田は新しい形で女優を主役とする任侠路線を復活させようと構想していたため[9]、黒木瞳を映画デビューさせる際に面接した岡田が[10]、黒木でこれをやろうとしたものと見られる。

またこれ以前の1988年春の映画誌のインタビューでは高岩が、「『華の乱』と『激突』(『将軍家光の乱心 激突』)の間に『極道の妻たち 三代目姐』か『おんな飛車角』のどちらかを(1988年)11月にやります」と話していることから[11]、本作の企画を練っていたものと見られ、『極道の妻たち 三代目姐』は半年遅れて1989年4月8日に公開されていることから、同傾向の映画を避けて本作が優先して製作されたものと考えられる。1988年夏頃の仮タイトルは『姐御といわれた女』だったが[12]、『姐御』に短縮された[12]

俊藤は1974年2月に東映を退社してフリーのプロデューサーになっており[13][14][15][16]、1980年代に入るとプロデュース作のペースも落ち[17]、本作は3年ぶりのプロデュース作だった[7]

当時はビデオテレビ放映等、二次使用の儲けが大きい時代で[4]、岡田社長から「映画で損をしないところから始めよ。そうすれば二次使用で利益が充分出る」と興行で大赤字だけは出さないよう指示が出ていた[4]

キャスティング

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ビートたけしがヤクザ役で東映に出演するのは初めて[4]。東映はこの年の夏、『二人の刑事(デカ)』というタイトルで、ビートたけし主演映画を企画し、ビートたけしを口説いていたが[18]、たけしのテレビ番組視聴率が落ちてきたため、もう客を呼べるタレントではないと判断し[18]、「スケジュールが調整できなかった」としてその企画を中止し、ビートたけしに対して失礼な対応を行ったが[18]、本作には出演した。当時の文献には、同時期にやはり熱心にたけしを口説いていた松竹富士のプロデューサー・奥山和由の『灼熱』に主演が決まったと書かれている[18]

作品の評価

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興行成績とビデオ売上げ

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1988年11月16日から12月16日までの35日間の一本立て興行を打ち[19]配収3億円[1]ビデオは翌1989年に発売され3万9,000本を売り上げた[1]。ビデオ価格は不明だが、ビデオ売上げは4億円以上と見られる。岡田社長は本作が予想以上に売れたことに驚き[1]、1989年6月8日の第1回ビデックス・ジャパンの会期中にあった「東映ビデオ感謝パーティー」で挨拶に立ち「ビデオのモトは映画である。東映はビデオレンタルでも商売になる映画を今後もどんどん作り続ける」と宣言した[1]。また映画誌のインタビューで「東映が作るシャシン、映画興行では多少来たり来なかったりするが、レンタルでの回転率、東映が抜群なんだよ。『姉御』なんかな。ビデオ出したら大ヒットだ。これ見てあのテのもの(ヤクザ映画)まだイケると、こう思うんだな。それなぜかいうたら、ウチの映画はレンタル向きなんだよ。レンタルのお客、名作欲しがる人もいるけど、数が少ないわな。大多数はいわば昔ながらの東映ファンみたいな人たちが圧倒的多数じゃないの。そういう東映カラーみたいなものばかり作って来たからな。興行でもイケる、ビデオでも出てゆく、そういう並行型をたどるものをいかに本数多く揃えられるか、これから映画でもビデオでもポイントになるわねえ。あンまり生真面目なものはどっちも来ないよ」等と述べた[1]

注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、241–242頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  2. ^ a b 姐御東映ビデオ
  3. ^ 姐御”. 日本映画製作者連盟. 2022年10月1日閲覧。
  4. ^ a b c d e 高岩淡(東映専務取締役)・鈴木常承(東映・常務取締役営業部長)・小野田啓 (東映・取締役待遇宣伝部長)「〈特集1〉 本誌・特別座談会 『東映 2大超特作を柱に大攻勢 秋『華の乱』 新春『激突』」『映画時報』1988年8、9月号、映画時報社、4–15頁。 
  5. ^ 姐御 | ぴあエンタメ情報
  6. ^ 姐御 - 文化庁日本映画情報システム
  7. ^ a b 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、271、313頁。ISBN 4-06-209594-7 
  8. ^ 姐御(1988年) – 映画ナタリー
  9. ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『鬼龍院花子の生涯』を機に、任侠路線を復活させる東映。果して、その背景にあるものは何か。」『キネマ旬報』1982年6月下旬号、キネマ旬報社、170-171頁。 「ニュース・スクランブル CINEMA 夏目雅子主演で直木賞作品『時代屋の女房』映画化」『週刊明星』1982年10月7、14日号、集英社、202頁。 
  10. ^ 【続報】北大路欣也、富司純子ら思い出語る”. 日テレNEWS24. 日本テレビ放送網 (2011年5月10日). 2015年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月1日閲覧。悼む声続々…北大路欣也「男として憧れの的」”. スポーツニッポン新聞社 (2011年5月11日). 2015年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月1日閲覧。志穂美悦子さん、海外映画祭で空手の相手に…岡田茂氏死去”. 報知新聞社 (2011年5月10日). 2011年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月1日閲覧。
  11. ^ 高岩淡・鈴木常承・小野田啓、聞き手・松崎輝夫「本誌・特別インタビュー 夏から新春へ強力布陣そろう―東映、第六十六期の大攻勢を語る」『映画時報』1988年3、4月号、映画時報社、12頁。 
  12. ^ a b 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 邦画3社の秋から正月までの番組が決定…」『キネマ旬報』1988年9月下旬号、キネマ旬報社、160頁。 
  13. ^ “"型破りの仁きょう映画"めざす 東映 俊藤氏 日活の田中監督を迎えて 高倉・菅原で 『神戸国際ギャング』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1975年9月26日) 
  14. ^ 「邦画新作 情報藤純子がカムバックする?」『キネマ旬報』1975年8月下旬号、キネマ旬報社、160–170頁。 
  15. ^ 「血まみれ姿に看護婦さんもびっくり 高倉健がビルから転落 顔面強打で危機一髪! 空中で必死の回転、九死に一生…」『週刊明星』1975年10月5日号、集英社、40–43頁。 
  16. ^ 「速報 高倉健が墜落事故 九死に一生の重傷! もう少しでオレは死ぬところだった…」『週刊平凡』1975年10月2日号、平凡出版、28–30頁。 
  17. ^ 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、312–313頁頁。ISBN 4-06-209594-7 
  18. ^ a b c d 「ZIGZAG大接近 松竹VS東映、"たけし主演映画争奪戦"で意外な結末」『週刊宝石』1988年8月12日号、光文社、56頁。 
  19. ^ 「邦画3社63年度番組配収 《東映》」『AVジャーナル』1988年10月号、文化通信社、83頁。 

外部リンク

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