妙満寺
妙満寺(みょうまんじ)は、京都市左京区岩倉にある顕本法華宗の総本山の寺院。山号は妙塔山。本尊は三宝尊。安珍・清姫伝説ゆかりの鐘があることで知られる。
妙満寺 | |
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所在地 | 京都府京都市左京区岩倉幡枝町91 |
位置 | 北緯35度4分2.4秒 東経135度46分29.9秒 / 北緯35.067333度 東経135.774972度座標: 北緯35度4分2.4秒 東経135度46分29.9秒 / 北緯35.067333度 東経135.774972度 |
山号 | 妙塔山 |
宗派 | 顕本法華宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 康応元年(1389年) |
開山 | 日什 |
開基 | 天王寺屋通妙 |
正式名 | 妙塔山妙滿寺 |
別称 | 妙塔學林 |
札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
文化財 | 法華経要文和歌懐紙、絹本著色弥勒下生変相図(重要文化財) |
法人番号 | 4130005002314 |
概要
編集妙満寺を創建した日什は、もと天台宗の学頭で名を玄妙と称した。68歳の時に上洛して後円融天皇へ上奏し「二位僧都」の位と「洛中弘法の綸旨」を賜った。室町時代、日什は天王寺屋通妙の外護を受けて妙満寺を建立した。安土桃山時代から江戸時代にかけて争乱などにより移転と再建を繰り返した。近年、門前に3,000株のツツジが植えられて、花の寺として親しまれている。塔頭が4院ある(成就院、正行院、法光院、大慈院)。
現住は307世大川日仰貫首(京都市寂光寺より晋山)。
歴史
編集永徳3年(1383年)、日什が天王寺屋通妙の外護により、六条坊門室町(現・京都市下京区)[1]に法華堂を建立したのが当寺の草創とされる。康応元年(1389年)に伽藍を整備し、妙満寺と号した。
応永2年(1395年)に火災により伽藍を焼失し、綾小路東洞院(現・京都市下京区)に移転、再建された。応仁元年(1467年)、応仁の乱による焼失後は、四条堀川(現・京都市下京区)に移転した[2]。
天文5年(1536年)には天文法華の乱により伽藍を焼失し、妙満寺は堺に避難する。天文11年(1542年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、寺は四条堀川の旧地に再建されるが、天正11年(1583年)、羽柴秀吉の命により、寺町二条(現・京都市上京区榎木町)に再移転する[3]。
寛永5年(1628年)の火災、宝永5年(1708年)の宝永の大火、天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変によって伽藍を焼失しているが、その都度再建されている。1871年(明治4年)、上知令により寺領が縮小された。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には強制疎開により塔頭4院の寺領、建物が失われている[4]。
寺が寺町二条から現在の岩倉に移転したのは1968年(昭和43年)である。旧寺地である上京区寺町通二条下る榎木町は現在京都市役所分庁舎や京都市消防局の敷地となっており、付近には妙満寺前町の町名が残っている。1973年(昭和48年)には仏舎利大塔が建立されている。
境内
編集- 本堂
- 御開山廟
- 中川の井 - 京都七名水のひとつ「中川の井」の井戸枠。本来は寺町二条にあった。
- 庫裏 - 本坊。
- 方丈
- 庭園「雪の庭」 - 俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が、門人であった塔頭・成就院の住職日如に請われて造営した庭園。清水寺塔頭・成就院の「月の庭」、北野天満宮(一説には祇園)にあった神宮寺・成就院の「花の庭」(2022年1月再興[5])とで、成就院「雪月花の三名園」と呼ばれた。1968年(昭和43年)に寺町二条から現在地に移転する際そのまま移したもので、移転後は本坊の庭園となっている。なお、2022年(令和4年)に北野天満宮に「花の庭」が復興された。
- 展示室
- 大書院
- 修行道場
- 北門
- 仏舎利大塔 - 1973年(昭和48年)に檀信徒の寄進により建立された塔で、内部は納骨堂となっている。インドのブッダガヤ大塔を模したもので、1階に釈迦如来坐像が祀られている他、四面の外壁に486体の釈迦如来像がはめ込まれている。
- 成就院 - 塔頭。
- 正行院 - 塔頭。
- 法光院 - 塔頭。
- 大慈院 - 塔頭。
- 鐘楼
- 山門
- 放生池
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参道と山門
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山門
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本堂
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仏舎利大塔
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方丈
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鐘楼
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中川の井
文化財
編集重要文化財
編集所在地
編集交通アクセス
編集参考文献
編集- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 3 洛北』、駸々堂出版、1982