奉常(ほうじょう)は、古代中国のの時代に置かれた官職である。宗廟と土地の祭祀や儀式・天文・医術・学問も管轄した。紀元前144年太常と改称した。

官名と職務

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常は礼典を意味し、それを奉じる官が奉常だとする説がある[1]。『漢書』百官公卿表によれば、「宗廟の礼儀を掌る」[2]。宗廟は君主の祖先を祀る施設である。

歴史

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漢書』の「百官公卿表」が奉常を「秦官」と記す[2]。史書に直接に秦の奉常に触れる箇所はないが、秦の時代からあったのだろう。

前漢

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前漢では、高祖劉邦のときに太常が置かれ、恵帝が奉常と改めた[3]二年律令に奉常が見える[3]景帝が中6年(紀元前144年)にまた太常と改めた[2]。中央ではこれ以後奉常に戻ることはなかった。秩石は二千石[3]

副官として(奉常丞)がついた[2]

また、太楽令太祝令太宰令太史令太卜令太医令雍太宰令雍太祝令が、それぞれに丞(太楽丞、太祝丞など)とともに属した[2]は首都長安の近郊にあり、かつて秦の都があったところで、後述の五畤をはじめ祭祀の対象が多かった[4]均官長と均官丞、都水長と都水丞も属した[2]。令と長では令のほうが格上だが、どちらもその職務の長官である。

複数ある皇帝の先祖を祀る施設には、廟、寝、園があり、令または長と丞が置かれた[2]。その祭祀に供給する食膳を整えるために、食官令または食官長と食官丞も付属した[2]。個々の官職の名は「孝文園令」(文帝をまつる園令)のように号を冠した場合と、「覇陵園令」(文帝が葬られた覇陵の園令)のように地名を冠した場合があった[5]。陵に付属する県も、奉常に属した。また、五畤(五帝を祀る)のそれぞれに一人ずつ、五人の尉がいた[2]。尉の正式名称はわからない。

多いときに数十人いた博士も、奉常の属官であった[2]

後漢末に実権を握った曹操は、建安21年(216年)漢の皇帝によって魏の王に封じられてから、奉常を置いた[6]。漢の太常と別に曹操の先祖を祀る奉常を任命したのである。魏の宗廟は、これより前の建安18年(213年)、曹操が魏公のときに建てられていた[7]曹丕が禅譲されて魏の皇帝になると、太常に改称した。

脚注

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  1. ^ 『『漢書』百官公卿表訳注』40頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』38頁。
  3. ^ a b c 『『漢書』百官公卿表訳注39頁。
  4. ^ >『『漢書』百官公卿表訳注』45 - 46頁。
  5. ^ 『『漢書』百官公卿表訳注』45頁。
  6. ^ 『三国志』巻1、武帝紀第1、建安21年8月。裴松之注が引用する『魏書』。ちくま学芸文庫『正史三国志』1の108頁注4。
  7. ^ 『三国志』巻1、武帝紀第1、建安18年。ちくま学芸文庫『正史三国志』1の93頁。

参考文献

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外部リンク

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