大童山文五郎
江戸時代の相撲力士
大童山 文五郎(だいどうざん ぶんごろう、天明8年2月15日(1788年3月22日) - 文政5年12月20日(1823年1月31日))は、山形県出身の江戸時代の力士。本名は塩野 文五郎。最高位は西前頭5枚目(1805年2月場所)。現役時代の体格は159cm、169kg(成年時)。
来歴
編集百姓(塩野武左衛門)の子として、出羽国村山郡長瀞村[1](現在の山形県東根市)に生まれる。生後1年2ヶ月で拾貫(37.5キロ)、2歳で115cm(120cmとも)33kgと伝わる[2]。また、7歳で身長三尺九寸七分(120センチ)、体重十九貫(71キロ)、腹三尺六寸(109センチ回り)と錦絵に記されている。
その怪童ぶりから、1794年9月、数え年7歳(満6歳)で江戸に出て初土俵を踏んだ。土俵入りに人気があり、江戸中で大評判になった[3]。勝川春英,勝川春山,喜多川歌麿,東洲斎写楽などの絵師がこぞって浮世絵を描いた。中でも、写楽は「大童山土俵入り」シリーズとして、4点浮世絵に描いている。 また北斎版木の裏に彫られた4枚の色版木がボストン美術館に残っている。
寛政・享和年間は土俵入りのみだったが、文化年間に入ると相撲を取った記録が残っている。1805年(文化2年)2月場所、西前頭5枚目で8勝2休の好成績を残すも、現役全般としては余り成績は振るわなかった(但し、当時の記録については殆ど残っていないため、正確な点は不明)。1812年(文化9年)4月場所で引退。
引退後は、神田下谷広徳寺の前で艾や手拭を売った。「七年モグサ」を売って繁盛したという[4]。1822年(文政5年)12月20日死去。享年36(満34歳没)。蔵前の榧寺に墓がある。
主な戦績
編集- 幕内在位:12場所(但し実際に相撲を取ったのは1804年11月場所-1806年3月場所の4場所のみ)
- 幕内通算成績:9勝1敗100休 勝率.900
- 現役在位:24場所
場所別成績
編集春場所 | 冬場所 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
1794年 | x | 西張出前頭 0–0–10 |
||||
1795年 | 西張出前頭 0–0–5 |
西張出前頭 0–0–10 |
||||
1796年 | 西張出前頭 0–0–10 |
西張出前頭 0–0–10 |
||||
1797年 | 西張出前頭 0–0–10 |
西張出前頭 0–0–10 |
||||
1798年 | 西張出前頭 0–0–10 |
x | ||||
1799年 | x | x | ||||
1800年 | x | x | ||||
1801年 | x | x | ||||
1802年 | x | x | ||||
1803年 | x | x | ||||
1804年 | x | 西張出前頭 0–0–10 |
||||
1805年 | 東前頭5枚目 8–0–2 |
東前頭6枚目 1–1–8 |
||||
1806年 | 東前頭6枚目 0–0–5 |
東幕下筆頭 1–0 |
||||
1807年 | 東幕下筆頭 0–0 |
東幕下12枚目 – |
||||
1808年 | 東幕下21枚目 – |
西幕下 –[6] |
||||
1809年 | 西幕下 –[6] |
東幕下20枚目 – |
||||
1810年 | 西幕下 –[6] |
西幕下 –[6] |
||||
1811年 | 東幕下20枚目 – |
西幕下 –[6] |
||||
1812年 | 西幕下 引退 ––[6] |
x | ||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
- 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。
脚注
編集- ^ 怪童大童山文五郎は長瀞生まれ
- ^ 大童山文五郎(大相撲 記録の玉手箱)
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p57
- ^ http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/philately/people_ta.html
- ^ 相撲絵シリーズ 第5集 1979年3月10日発行(大童山土俵入り)
- ^ a b c d e f 張出。
関連項目
編集外部リンク
編集- “大童山文五郎 力士情報”. 相撲レファレンス. 2012年3月18日閲覧。