大坂丸
大坂丸(おおさかまる/おほさかまる)は、日本海軍(兵部省所管[3])の運輸船(運送船[5])[14]。
大坂丸 | |
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基本情報 | |
建造所 |
(イギリス・グラスゴー)[1] (またはロンドン)[2] |
艦種 | 運送船[2] |
艦歴 | |
竣工 | 1866年[1] |
就役 |
明治2年8月24日(1869年9月29日)購入[3] 明治3年献納[4] |
最期 | 1875年12月25日沈没[4] |
要目 | |
排水量 |
440英トン[3][5] または440.39英トン[2] |
トン数 |
明治4年時[6] 総トン数:440.39トン 積載トン:327トン |
長さ |
169尺8寸[1](約51.46m) または187 ft (57.00 m)[3][注釈 1] |
全長 |
全身長:30間[6](約54.55m) または、29間1尺余り[7](50.03m強) あるいは187尺[2](約56.7m) |
幅 |
27尺[1](約8.18m) または28 ft (8.53 m)[3] または 4間2尺5寸[6](約8.03m) 甲板幅:4間4尺5寸[7](約8.64m) あるいは最大幅:28尺5[2](約8.64m) |
深さ | 15尺7[2](約4.56m) |
吃水 |
前部:12 ft 6 in (3.81 m)、後部:14 ft (4.27 m)[1] 明治2年時:13尺[2](約3.9m) 明治4年時:15 ft (4.57 m)[6] |
機関 | 110実馬力[3][2] |
ボイラー | 煙導缶(Flue boiler) 1基[8] |
主機 | 直立機関[1][2](Stand engine) 1基[8] |
推進 | 1軸[1] |
帆装 | 3檣スクーナー[2] |
燃料 | 炭団:200,000斤[1][2](約120トン) |
航続距離 | 燃料消費:25,000斤/日[1][2] |
乗員 |
明治2年:65名[2] 1873年10月定員:57名+外3名。海兵乗組時65名[9] または、65名[10] 1874年8月総員:約75人[11] |
兵装 |
12斤アームストロング砲 2門[1] 12斤六角砲 1門[1] 最終時:12斤アームストロング後装砲 2門[12] |
搭載艇 | 1874年:4隻[13] |
その他 | 船材:鉄[1][2] |
大坂(大阪)は都市の名前[15]。 都市名の漢字を大坂から大阪に改めたのは明治3年で、正式な艦名は大坂丸になる[14]。 ただ、大阪の漢字を使う文献もある[15][3][5]。
船歴
編集元はイギリス・グラスゴーで1866年(慶応2年)に竣工したイギリスの鉄製気船OSAKA[3][4]。 明治2年(1869年から1870年)の箱館戦争では外国の運送船オーサカがチャーターされ、青森から乙部まで上陸部隊を輸送した[16]。 明治2年8月24日(1869年9月29日)にイギリス人から[17] 豊津藩が横浜で購入、翌明治3年6月22日(1870年7月20日)に献納され、兵部省所管となり大坂丸と命名された[4]。
明治3年
編集大坂丸は6月15日(1870年7月13日)に出港したが[18]、 機関の故障が起きて兵庫港で修理を行った[19]。 その後に出港して直ぐ故障することを繰り返し、安芸や下関で修理を行い、長崎港に到着[19]、 同年秋に同地で修理を行った[20]。
12月(1871年1月から2月)には富士山用のバラストを神戸などへ至急で輸送した[21]。 12月13日(1871年2月2日)に大坂丸は横浜港回航の令達が出され[22]、 12月15日(1871年2月4日)から同港に停泊した[23]。
明治4年
編集明治4年2月12日(1871年4月1日)、飛隼丸に横浜港へ回航して大坂丸と交代する令達が出された[24]。
6月20日(1871年8月6日)、大坂丸に函館港、余市港への回航が令達され[25]、 函館までイギリス産石炭100トンを運送した[26]。 大坂丸は7月8日(1871年8月23日)函館を出港、14日(1871年8月29日)に品海に帰港した[27]。
9月25日(1871年11月7日)[28]に富士山を横須賀まで曳航[29]、 大坂丸も横須賀で修理を行い[30]、 11月4日(1871年12月15日)に横須賀から品海に帰港した[31]。
明治4年11月9日(1871年12月20日)護送船に定められ[4]、同年11月15日(1871年12月26日)に五等に準ずる扱いとされた[32]。 明治4年の『公文類纂』によると11月9日(1871年12月20日)に大坂丸を5等護送船(その他の艦船も等級を規定)に定めたいと申し出があり、14日(1871年12月25日)に決定した[33]。 同年4月から小艦隊が編成されていたが、11月10日(1871年12月21日)大坂丸は小艦隊に編入された[34]。 明治4年の『公文類纂』によると11月5日(1871年12月16日)付で日進艦艦隊付の令達が出されている[35]。 『海軍省報告書』によると11月5日(1871年12月16日)で大坂丸は艦隊に編入された[36]。 また秘史局宛には11月15日(1871年12月26日)付で艦隊付の申し出が出ている[37]。
明治5年
編集翌明治5年1月24日(1872年3月3日)に艦隊から除かれ[38]、 輸送船と定められた[4][39][40]。
3月10日(1872年4月17日)、唐津、伊万里への航海が申し出され[41]、 3月15日(1872年4月22日)品海を出港、18日(1872年4月25日)から22日(1872年4月29日)に神戸港に寄港しカノン砲16門を搭載した[42]。 23日(1872年4月30日)に唐津港に入港、24日(1872年5月1日)から28日(1872年5月5日)まで石炭397,500斤を搭載した[42]。 ここで欠員だった火水夫のうち37人を伊万里県から人員で補充した[42]。 4月6日(1872年5月12日)出港、8日(1872年5月14日)午前1時30分に神戸港に入港、自艦用も含め石炭約150,000斤を搭載した[42]。 以降は敦賀で石炭を陸揚げし、再度唐津で石炭を搭載した[42]。 5月28日(1872年7月3日)唐津を出港、30日(1872年7月5日)兵庫に入港し石炭を陸揚げした[43] 同地では砲弾を搭載し、巡幸が帰るまで停泊した[44]。
9月15日(1872年10月17日)、横須賀に回航し[45]。 入渠をして船底の牡蠣落としと塗り替えを行い[46]、 22日(1872年10月24日)に品海に帰港した[47]。
1873年
編集1873年(明治6年) 1月17日、大坂丸は水路寮に属し、測量艦第一丁卯と同行が命じられ、2月12日品川を出港した[48][49]。 7月16日、琉球海岸測量に同行していた大坂丸は品川に帰着した[50]
なお同年2月3日、軍務局から提督府所管とする申し出があり[51]、 2月5日、軍務局から提督府へ移管した[52]。 3月13日、提督府の管轄から外れ軍務局に戻された[53]。
同年8月和歌山沖の測量を予定していた第一丁卯は、7月にボイラーが破損し測量中止、大坂丸は水路寮の管轄のまま修理を行うことになった[54]。 8月26日品海を出港し、横須賀に回航した[55]。 機械の修理、入渠が必要だったが[56]、 入渠は順番待ちで10月にずれ込み、修理完了は11月を予定した[57]。
1874年
編集1874年(明治7年)の佐賀の乱では兵員輸送に従事した[4]。 2月15日に「大坂丸」は長崎回航が命令され、海兵隊二小隊と砲兵半座を乗せて16日に品川を出港[58][59][注釈 2]。長崎で海兵隊を上陸させた[59]。 3月19日、「大坂丸」は品川に帰着した[60][注釈 3]。
その後は当初台湾へ行く予定だったが同年5月に北海道回航へ変更となり[61]、 樺太に派遣されることになった[62]。 5月20日鳳翔と共に品海を出港[63]、 樺太まで衣服や薬などを輸送した[64]。 9月11日函館港を鳳翔と共に出港、室蘭経由で帰路に就いた[65]。 帰路には工部省の材木300本を厚岸で積んでおり[66]、 9月21日品海に帰港[67]、 材木は10月に横浜港で陸揚げした[68]。
9月23日(または9月22日[69][70])に艦隊編入[71]、 9月25日に五等艦と定められた[4]。
10月下旬に横浜を出港し横須賀へ回航[72]、 同地で入渠修理し11月5日出渠[73]、 6日品海に帰港した[74]。 但しこの時点でボイラーの修理がまだ行われていなかった[73]。 更に石川島で残工事を行う予定だった[74][75]。
1875年
編集1875年(明治8年) 3月5日、「清輝」の進水式に明治天皇が臨席となり、横浜港から横須賀港まで「龍驤」に乗艦した[76]。 この時「東」「雲揚」が供奉艦として、また「大坂丸」も帯同した[76]。 翌6日の帰途で明治天皇は灯台寮附属の「明治丸」に乗船、「龍驤」「雲揚」が前衛、「東」「大坂丸」が後衛として護衛任務に就いた[76]。
5月19日、大坂丸は会計局所轄に定められた[77]。 5月24日に輸送船に準ずるものと定められた[4]。
10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[78]、 龍驤、東、鳳翔、雲揚、富士山、摂津、高雄丸、大坂丸は東部指揮官所轄となった[78]。
最期
編集同年10月15日、陸軍省の兵器運送のために大阪と鹿児島へ向けて出港した[79]。 12月25日午後8時20分、長崎(24日出港)から東京へ向けた帰航中に周防灘で三菱会社の汽船名護屋丸に衝突され沈没した[80][81]。 沈没場所は平郡島東端の南[82][注釈 4]。 積荷は砲身や砲架、砲弾[83]、陸軍の弾薬など[84]。 乗員は船長を含め10人、便乗者は14人が死亡し、乗員56人と便乗者18人は無事だった[80][85]。 便乗中に死亡した人には、後に三菱会社から吊祭料として1人当たり100円が遺族に渡された[86]。
その後
編集民間人による引き揚げが1878年(明治11年)10月に許可され[87]、 1886年(明治19年)5月から引き揚げが始まった[88][89]。 翌1887年(明治20年)以降も実施されたが[90]、 積荷の一部を引き揚げただけだった[91]。
船長
編集- (代理)福島敬典(福嶋彌太六):明治2年8月(1869年9月頃)[17] - 明治4年5月17日(1871年7月4日)[93][94]
- 柴貞邦 少佐::明治4年5月30日(1871年7月17日)[95] - 明治5年11月20日(1872年12月20日)[96]
- 磯辺包義 大尉:1873年1月12日[48] - 1873年8月23日[97][98]
- 滝山正門 大尉:1973年8月23日[98] - 1874年9月27日時[68]
- 増田明道 中佐:1874年10月18日[99] - 1874年11月18日時[74]
- (兼務)磯部包義 少佐:1875年3月[100] - (1875年4月14日[101])
- 滝山正門 大尉:1875年5月31日[77] -
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本海軍史』第7巻p.226によると、長さ57.8m、幅8.7m。
- ^ #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/船舶特務艇(1)画像16では2月6日品海出港としている。
- ^ #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/船舶特務艇(1)画像16では3月16日帰港(帰港場所不明)となっている。
- ^ #T8公文備考20/沈船に関する件(1)画像41-42、明治20年3月11日逓信省告示第24号によると「周防大島平野島字五十谷から南東に3カイリ強の地点」。
#明治8年公文録第54巻、大阪丸沈没ノ儀ニ付届、画像2によると「八島と平郡(島)の沖」。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l #帝国海軍機関史(1975)pp.452-453
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #M1-M9海軍省報告書画像11-12、明治二年己巳艦船総数表
- ^ a b c d e f g h #日本近世造船史明治(1973)p.190
- ^ a b c d e f g h i 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32、大坂『おおさか・おほさか』
- ^ a b c #近世帝国海軍史要(1974)p.883
- ^ a b c d #M4公文類纂25/大坂丸修復の件画像3
- ^ a b M7公文類纂13/管轄(2)画像21-23、明治7年事1套坤大日記第288号、別冊
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)別冊表1
- ^ 海軍制度沿革10-1(1972)pp.153-155、明治6年10月闕月(軍務局)艦船乗組定員、合計57名、外に按針局長(下士14等)1人及火夫次長(下士13等)2人。海兵乗組の時、定員は孟春と同じ(65名)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)p.452、准士官以上8名、下士14名、火水夫43名。
- ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像43-46、明治7年事套3第301号、艦船の部
- ^ #M11公文類纂後編59/大阪丸船引揚方出願の件山口県副申画像25、大坂丸備附大砲及備品。
- ^ #M7公文類纂16/修覆(6)画像5-6、明治7年9月27日第253号
- ^ a b #銘銘伝(2014)p.232、大坂(おおさか)
- ^ a b #艦船名考(1928)p.21、大阪 おほさか Oosaka.
- ^ #元綱(2004)p.133
- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、8月。
- ^ #M3公文類纂9/大阪丸出帆に付端舟等用意云々画像1
- ^ a b #M3公文類纂10/大坂丸修復掛合画像1-2
- ^ #M3公文類纂10/大阪丸修復入費画像1
- ^ #M4公文類纂24/富士艦バルラスト積人数取調方大坂丸達画像1,3
- ^ #M3公文類纂9/横浜港出張の義大阪丸へ達画像1
- ^ #M3公文類纂9/飛準大阪両船の内至急廻船の義の件回答画像1
- ^ #M4公文類纂4/新井二郎3等士官申付外3件達画像4「飛隼丸 横濱港回船大坂丸ト交代可致事 辛未二月十二日」
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- ^ #M4公文類纂11/江口儀一大坂丸積込石炭宰領兼務の達画像1
- ^ #M4公文類纂24/大坂丸品川帰船の件届画像1
- ^ #M4公文類纂25/大坂丸修復の件画像33
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- ^ #M4公文類纂25/大坂丸修復の件画像21
- ^ #M4公文類纂24/大坂丸横須賀より帰船の届画像1
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.58、明治4年11月15日(兵部省146)諸艦等級ヲ定ムルノ件。
- ^ #M4公文類纂24/諸艦等級定の件軍務局申出画像1-2、丁3号大日記10、丁640号「(前略)前条之通相定度事 辛未十一月九日 軍務局 秘史局御中 十一月十四日前書ニ決定ス」
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- ^ #M4公文類纂24/東京丸外1船艦隊附の件軍務局申出画像1
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- ^ #M5公文類纂24/大坂丸東京丸運送船画像1「省中布告79、正月二十四日 第17号 大坂丸 東京丸 艦隊相除キ当分運送船ニ被相用候事 壬申正月 兵部省 右如例布告」
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- ^ #M5公文類纂24/大坂丸達 唐津表へ出帆日限の件他3件画像3
- ^ a b c d e #M5公文類纂24/大坂丸達 唐津表へ出帆日限の件他3件画像7-9
- ^ #M5公文類纂24/廻港日乗 兵庫用所届 大坂丸御巡幸御用に付兵庫港へ碇泊の件画像1
- ^ #M5公文類纂24/行在所信報 大坂丸達 大坂丸御巡幸御用に付兵庫港へ碇泊の件画像1
- ^ #M5公文類纂24/大坂丸届 横須賀へ回船の件画像1
- ^ #M5公文類纂25/大阪丸申出 船底蠣落及1廉修復の件画像1-2
- ^ #M5公文類纂24/大坂丸届 品海へ碇泊の件画像1
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- ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.21。
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- ^ a b #明治8年公文録第54巻、大阪丸沈没ノ儀ニ付届、画像2 『廿五日午後八時廿分周防灘八嶌トヘグリ乃冲ニテ三菱船名護屋丸ニ衝突セラレ沈没ス船長初メ下士以下十人便船人十四人行方知レズ士官八人下士以下四十八人便船人十八人無事委キ事ハ郵便ニ致ス 十二月廿六日午前十時 下ノ関 大坂丸 海軍省 御中』
- ^ #M10公文類纂後編48/大阪丸便船溺死者へ三菱会社より贈与の吊祭料配布方の件他4件画像3
- ^ #T7公文備考22/沈没艦船引揚願(5)画像6、沈没船位置の略図。
- ^ #M11公文類纂後編59/大阪丸船引揚方出願の件山口県副申画像17-24、兵1第816号沈没品御届の写し。
- ^ #M11公文類纂後編59/大阪丸船引揚方出願の件山口県副申画像47、大阪号積込弾薬。
- ^ #明治8年公文録第54巻、大阪丸沈没ノ儀ニ付届、画像3 『名護屋丸ヨリ兵庫ヘ電信之写 名護屋丸乗組乃者ヨリ只今電信昨午後八時上ノ関前テ海軍ノ大坂丸ニ突当テ沈ミ人廿四人死ダ此方ヲ無事右ノ通リ通知乃侭此段届出候 十二月廿六日午後三時四十五分 兵庫海軍用所 海軍省御中』
- ^ #M10公文類纂後編48/大阪丸便船溺死者へ三菱会社より贈与の吊祭料配布方の件他4件画像13
- ^ #T7公文備考22/沈没艦船引揚願(8)画像15。
- ^ #M19公文備考9/汽船沈没画像1-2、御省御所管汽船沈没ノ大坂号引揚方着手御届。
- ^ #T8公文備考20/沈船に関する件(1)画像43-53、沈没船大坂号採揚工事手続書。
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- ^ #T7公文備考22/沈没艦船引揚願(5)画像2-4、沈没船大坂号御下附願。
- ^ #T7公文備考22/沈没艦船引揚願(7)画像2
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- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像42、明治6年8月。
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参考文献
編集- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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