大口喜六
大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家。豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。
大口 喜六 おおぐち きろく | |
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大口喜六の肖像写真 | |
生年月日 | 明治3年5月25日(1870年6月23日) |
出生地 | 三河国豊橋藩(現・愛知県豊橋市) |
没年月日 | 1957年1月27日(86歳没) |
出身校 | 東京帝国大学選科 |
前職 | 豊橋町長 |
所属政党 | 立憲政友会 |
初代 豊橋市長 | |
在任期間 | 1907年1月7日 - 1912年1月10日 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1912年 - 1942年 |
第4代 豊橋市長 | |
在任期間 | 1914年4月27日 - 1916年2月20日 |
第11代 豊橋市長 | |
在任期間 | 1938年9月17日 - 1940年12月10日 |
経歴
編集大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日(1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。
政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。
1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年(明治45年)に市長を退任した。
1912年(明治45年)から1942年(昭和17年)まで衆議院議員を10期務めた。その間、1914年(大正3年)から1916年(大正5年)、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)に豊橋市長に再任している。 1927年(昭和2年)3月、議会乱闘事件に関与したとして取り調べを受けるが、大口は大声を出しただけであると主張[1]、後日不起訴となる[2]。 1930年(昭和5年)には濱口内閣の金解禁に反対して、石橋湛山・小汀利得・高橋亀吉らとともに全国を遊説した。1940年(昭和15年)国民更生金庫が設立され、その理事長に就任した。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けて再選した。
脚注
編集参考文献
編集公職 | ||
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先代 |
豊橋市長 初代:1907年 - 1912年 |
次代 高橋小十郎 |
先代 榊原辨吾 |
豊橋市長 第4代:1914年 - 1916年 |
次代 細谷忠男 |
先代 神戸小三郎 |
豊橋市長 第11代:1938年 - 1940年 |
次代 近藤寿市郎 |