塚本清治
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日(明治5年11月5日)-1945年(昭和20年)7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。
経歴
編集兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。同内閣崩壊後にこれを辞し、1924年(大正13年)の加藤高明内閣発足とともに法制局長官に任じられ、途中1925年8月に内閣書記官長に転じて、引き続き第1次若槻内閣でも同職にあった。1926年(大正15年)1月29日、貴族院議員に勅選されて[1]同成会に属した[2]。1931年(昭和6年)に関東長官に任じられる。貴族院議員在職中に死去した[2][3]。
著作
編集- 『神社に関する注意』神社協会事務所、1916年。
栄典
編集- 位階
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従七位[4]
- 1906年(明治39年)2月20日 - 正七位[4]
- 1908年(明治41年)3月30日 - 従六位[4]
- 1910年(明治43年)5月21日 - 正六位[4]
- 1912年(大正元年)9月30日 - 従五位[4]
- 1915年(大正4年)8月20日 - 正五位[4]
- 1920年(大正9年)8月30日 - 従四位[4]
- 1926年(大正15年)2月15日 - 正四位[4]
- 1927年(昭和2年)5月2日 - 従三位[4]
- 1945年(昭和20年)7月11日 - 正三位[5]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章[4]
- 1911年(明治44年)6月28日 - 勲五等瑞宝章[4]
- 1915年(大正4年)8月28日 - 勲四等瑞宝章[4]
- 1916年(大正5年)1月19日 - 銀杯一組[4]
- 1917年(大正6年)12月20日 - 銀杯一組[4]
- 1919年(大正8年)9月30日 - 勲三等瑞宝章[4]
- 1922年(大正11年)12月23日 - 勲二等瑞宝章[4]
- 1924年(大正13年)5月31日 - 旭日重光章[4]
- 1926年(大正15年)7月12日 - 勲一等瑞宝章[4]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[6]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日大綬章[4]
- 1940年(昭和15年)4月29日 - 銀杯一組[4]
脚注
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『大正人名辞典 Ⅱ・下』日本図書センター、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 院内会派編 貴族院・参議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
編集- 歴史が眠る多磨霊園 塚本清治(原典「歴代閣僚と国会議員名鑑」)
- 加藤高明内閣 - ウェイバックマシン(2004年9月30日アーカイブ分)
公職 | ||
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先代 江木翼 |
内閣書記官長 第27代:1925年 - 1927年 |
次代 鳩山一郎 |
先代 佐竹三吾 |
法制局長官 第23代:1924年 - 1925年 |
次代 山川端夫 |
先代 井上孝哉 |
内務次官 第26代:1923年 - 1924年 |
次代 井上孝哉 |