報恩
報恩(ほうおん、養老2年(718年)頃? - 延暦14年6月28日(795年7月18日))は奈良時代の修行僧。大和国または備前国津高郡駅郷波河村の人[1]。
ほうおん 報恩 | |
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養老2年頃? - 延暦14年6月28日 718年頃? - 795年7月18日 | |
尊称 | 報恩大師 |
生地 | 大和国または備前国津高郡波河村 |
没地 |
大和国高市郡 子島寺 (現:奈良県高市郡高取町) |
宗派 | 密教、修験道 |
寺院 | 吉野山、子嶋寺、備前48ヶ寺 |
師 | 玄昉? |
弟子 | 延鎮 |
経歴
編集『奈良坊目拙解』によれば、養老2年(718年)頃に誕生[2]。15歳(732年頃?)で出家。30歳(747年頃?)で、吉野山に入り、観世音呪を持し、4~5年程で、霊感を得た[3][4]。『奈良坊目拙解』によれば吉野入山以前は、玄昉の弟子で、玄昉の観世音寺左遷と遷化を機に吉野山に入ったという[5]。
天平勝宝4年(752年)、孝謙天皇の病を加持により癒し、勅により得度を許され、報恩の名を贈られた[3][6]。また、孝謙から寝殿一宇を賜り、高市郡八多郷子島山に庵を結んだ[7]。
一方で、天平勝宝年間に、備前国を遍歴し、金山寺など所謂「備前48ヶ寺」を開基したとも言われる[8]。
天平宝字4年(760年)3月、大和国高市郡子島神社の近くに子島山の庵を移築し、国家の為に伽藍を建てて、子島寺と号し、一丈八尺観自在菩薩像と四大天王像を安置した[3][9]。
長岡京時代に、桓武天皇の病を根本呪を50遍唱えて癒して、賞を給わった。山に帰る際、桓武は、内臣に鳳輦にかつがせて報恩を載せようとしたが、報恩はそれには乗らず徒歩で帰った。桓武は報恩の親族に官禄を賜い、報恩には封戸を与えた[3][10]。『子島山寺建立縁起大師伝』によれば、これは延暦4年(785年)のことで、このとき「修行大十禅師」とされたという。また、『七大寺年表』延暦14年6月28日にも、「内供奉十禅師修行大法師報恩」と書かれている[11][12]。なお、延暦4年は藤原種継暗殺事件と早良親王廃立があった年であるが、桓武の病については『続日本紀』に見えない[10]。
備前48ヶ寺
編集伝記
編集参考文献
編集- 『元亨釈書』, 黒豆データベース, 禅文化研究所
- 恵珍『七大寺年表』, 東京国立博物館ライブラリー
- 小林崇仁「吉野山の報恩法師」, 『現代密教』 第17号, 智積院, 2004