堂森芳夫
堂森 芳夫(どうもり よしお、1903年(明治36年)8月1日 - 1977年(昭和52年)1月13日[1])は、日本の政治家。位階は正三位。日本社会党衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。医学博士[1]。
堂森芳夫 どうもり よしお | |
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生年月日 | 1903年8月1日 |
出生地 | 日本 福井県 |
没年月日 | 1977年1月13日(73歳没) |
死没地 | 日本 東京都千代田区 |
出身校 |
金沢医科大学卒業 (現金沢大学医薬保健学域) |
前職 | 医師 |
所属政党 |
(日本社会党→) (右派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 医学博士 |
選挙区 | 福井県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
選挙区 | 福井県全県区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 |
1946年 - 1947年3月31日 1955年2月27日 - 1976年12月9日 |
来歴
編集福井県出身[1]。1929年(昭和4年)金沢医科大学を卒業[1]。市立敦賀病院内科医長を経て開業医になる[1]。
1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で福井県から立候補し、定数5名のうち第5位になるが、法定得票数に満たなかったため当選者にならなかった(4位との差は981票)[2]。5月に行なわれた再選挙で福田一(自由党)や中野重治(共産党)らを制し、衆議院議員に初当選した[3]。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で落選[4]。1949年の第24回衆議院議員総選挙でも返り咲きはならなかった[4]。
1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙で福井地方区から立候補して参議院議員に当選する[5]。
1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で再び衆議院議員に当選する[4]。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に落選する[4]。
1977年(昭和52年)1月13日、心臓麻痺のため滞在中であった東京都千代田区のホテルニューオータニで死去、73歳[6]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、正三位に叙される[7]。
脚注
編集参考文献
編集- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
議会 | ||
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