堀込 基明(ほりごめ もとあき、1939年10月31日 - 1997年2月16日)は、長野県小諸市出身のプロ野球選手外野手)。愛称は「モーやん[1]

堀込 基明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県小諸市
生年月日 (1939-10-31) 1939年10月31日
没年月日 (1997-02-16) 1997年2月16日(57歳没)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1962年
初出場 1962年
最終出場 1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1978 - 1980)

経歴

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小諸商業高校から専修大学へ進学。東都大学野球リーグでは1959年春季リーグで優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では、エース坂井勝二を擁し準決勝に進出するが、木次文夫近藤昭仁らのいた早大に敗退。1960年秋季リーグでも山本兵吾の好投もあって在学中2回目の優勝を飾った。大学の1年上には坂井(3年で中退)、山本の他に、後にプロで同僚となる小池兼司がいた。1961年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算89試合出場、288打数95安打、打率.330、4本塁打、35打点。ベストナイン4回(一塁手2回、外野手2回)受賞。

1962年南海ホークスに入団。1年目から一軍で起用され、1964年から左翼手中堅手としてレギュラーに定着。大学先輩の杉山光平や小池兼司らと南海400フィート打線の一角を担った。同年の日本シリーズでも第6戦、第7戦にそれぞれ2安打を放ち、阪神を降して5年ぶりの日本一に輝く。その後の2回のリーグ優勝にも貢献した。1965年には初めて規定打席(9位、打率.277)に達し、ベストナインを受賞。1966年読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦で城之内邦雄から本塁打を放つ。しかし同年から打撃が低迷、翌1967年には小泉恒美が台頭し、出場機会が減少する。

1968年途中に佐藤公博島野育夫との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。中暁生の長期故障欠場を補強するためであり、一番打者、中堅手として良く代役をつとめた。しかし翌年以降は思うような活躍ができず、1970年はプロ入り初の一軍出場なしに終わり、同年限りで現役引退。

引退後、1978年から1980年まで中日ドラゴンズでコーチを務めた。

1997年2月16日、死去。満57歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1962 南海 81 183 165 16 29 5 1 2 42 13 8 3 0 1 13 0 3 27 1 .176 .247 .255 .502
1963 122 321 292 27 75 12 4 6 113 24 5 7 3 4 16 0 6 28 1 .257 .305 .387 .696
1964 139 441 407 48 112 16 1 11 163 57 14 3 0 8 24 0 2 52 1 .275 .313 .400 .713
1965 130 489 452 65 125 19 6 8 180 40 14 4 6 2 23 1 6 63 2 .277 .319 .398 .717
1966 128 438 414 38 94 15 3 9 142 40 9 9 3 2 17 1 2 58 3 .227 .260 .343 .603
1967 110 325 305 27 71 10 4 4 101 25 7 4 2 1 13 1 4 49 0 .233 .272 .331 .604
1968 19 35 31 2 5 0 0 0 5 0 0 1 0 0 3 0 1 3 0 .161 .257 .161 .418
中日 75 145 129 18 32 3 2 0 39 7 3 0 3 0 9 0 4 21 1 .248 .317 .302 .619
'68計 94 180 160 20 37 3 2 0 44 7 3 1 3 0 12 0 5 24 1 .231 .305 .275 .580
1969 10 11 10 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .000 .091 .000 .091
通算:8年 814 2388 2205 241 543 80 21 40 785 207 60 31 17 18 119 3 28 305 9 .246 .291 .356 .647
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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記録

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背番号

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  • 8 (1962年 - 1968年途中)
  • 17 (1968年途中 - 1970年)
  • 62 (1978年 - 1980年)

脚注

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関連項目

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外部リンク

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