坊城俊章
坊城 俊章(ぼうじょう としあや)は、日本の公家、陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。
坊城俊章 | |
生誕 | 弘化4年1月24日(1847年3月10日) |
死没 | 明治39年(1906年)6月23日[1] |
改名 | 修丸(幼名)[2]→俊章 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 坊城家 |
父母 | 父:坊城俊克、養父:坊城俊政 |
兄弟 |
俊章、八条隆吉 養兄弟:今園国映、俊延、芝山祐豊、 録子、直、美津、式子、梓子、 本田あふひ |
妻 | 松平頼聰養女・久子 |
子 | 俊徳、俊良、俊賢 |
経歴
編集山城国京都で坊城俊克の長男として生まれ、父の養子で従兄弟の坊城俊政の養子となる[2]。安政4年11月25日(1858年1月9日)に元服し昇殿を許される[3]。元治元年12月25日(1865年1月22日)侍従となる[3]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、弁事加勢に就任[4]。以後、弁事、外国事務局権補、三等陸軍将を歴任[4]。同年8月、旧幕府艦隊に備えて摂泉防禦総督に就任し大坂警備に当たった[1][4]。さらに、左少弁、三陸巡察使、陸軍少将、兼三陸磐城両羽按察使、兼三陸磐城両羽按察次官などを経て、明治3年9月24日(1870年10月18日)第一次山形県知事に就任し、明治4年10月5日(1871年11月17日)に免本官となる[4]。その後、ロシア帝国、ドイツ帝国に留学し、1874年(明治7年)7月に帰国した[1][4]。その後、近衛歩兵大隊長、第1師管軍法会議判士長などを務め、陸軍歩兵中佐に進み、日清戦争では台湾兵站司令官として従軍した[1][5]。
養父・俊政の死去に伴い、1881年(明治14年)11月7日、家督を相続[2]。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵[6]。1897年(明治30年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され[7]死去するまで在任した[5]。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集- ^ a b c d 『明治維新人名辞典』870-871頁。
- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』下巻、469-471頁。
- ^ a b 『坊城家譜』
- ^ a b c d e 『百官履歴 上巻』182-185頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』29頁。
- ^ 『官報』第307号、明治17年7月8日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
- ^ 『官報』第532号「賞勲叙任」1885年4月14日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 井上角五郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
編集- 『坊城家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 坊城家(本家)初代 1884年 - 1906年 |
次代 坊城俊徳 |