国維会(こくいかい、旧字体國維會)は、1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)にかけて存在した日本右翼政治団体

概要

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1932年(昭和7年)1月に私塾「金鶏学院」の安岡正篤とその支持者を中心として設立[1]。発起人に荒木貞夫後藤文夫近衛文麿、理事に酒井忠正岡部長景吉田茂(内務官僚、戦後の首相とは別人)・松本学ら華族・官僚・軍人が名を連ねた[2]。機関紙『国維』を発行。満洲事変後の国家主義思潮の高まりに乗じて、日本精神に根ざした国政革新計劃の樹立と、人材の糾合を目的とした。いわゆる新官僚(官僚主導の政治改革を企図した内務官僚を中心としたグループ)が数多く参加し、活動の中心となる。同年の斎藤内閣に後藤が農相に就任、「農山漁村経済更生運動」を指導したのを始め、続く岡田内閣でも後藤文夫・吉田茂(内務官僚、戦後の首相とは別人)・廣田弘毅河田烈ら会員が入閣し、内閣書記官長の吉田茂(内務官僚、戦後の首相とは別人)を中心として「国策審議機関案」(この案に基づき後に内閣審議会内閣調査局企画院の前身)が生まれる)が作成された。

しかし、こうした会員の進出は、同会が「政界の黒幕」や「新官僚の母体」であるといった見方を広げ、また陸軍統制派との繋がりを噂されたこともあり、これらの疑惑を解消するため1934年(昭和9年)12月に解散声明を発表、表面的な政治団体としての活動にピリオドを打った(理事会は朝飯会と呼ばれる団体に改組された[3])。

出典

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  1. ^ 1927年(昭和2年)10月に金鶏学院より発行した『日本政教の根本問題 国体原論』において国体の明示を行い、次いで1928年(昭和3年)2月に私塾「金鶏学院」の叢書「蛍雪集」において国維運動を提唱し、日本の行くべき具体的方策を公表した。その運動の一環としての創会。『安岡正篤先生年譜』安岡正篤先生年譜編集委員会 1997 p.35、p40
  2. ^ 他に、香坂昌康・大島辰二郎。
  3. ^ 亀井俊郎『金雞学院の風景』 邑心文庫、2003年、ISBN 4946486305.