香坂昌康
日本の内務官僚
来歴・人物
編集東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。
以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官[1]。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。大日本連合青年団兼日本青年館理事長、国民精神総動員中央連盟理事。1945年(昭和20年)5月から8月まで、大東亜錬成院長。戦後は1951年(昭和26年)まで公職追放を受けた。1967年12月21日、老衰のため86歳で死去。
その他
編集弓道家としても著名である。大学時代には本多利実(本多流)に師事し、昭和22年(1947年)には範士号を授与された。戦後には全日本弓道連盟副会長等を務めた。
昭和8年(1933年)8月7日にJOAKから、2日後に行う防空演習(関東防空大演習)について演説を行った際のアルマイト製の録音盤が令和元年(2019年)に発見された[2]。
編著書
編集- 『炉辺閑話』篤農協会叢書、篤農協会、1936年。
- 『一人の力、国家の力』国民精神総動員中央聯盟、1938年。
- 編著『幽香女史』北辰堂、1960年。
- 『香坂昌康遺芳録』香坂昌康遺芳録刊行会、1972年。
脚注
編集- ^ 『官報』第1529号、昭和7年2月6日。
- ^ 昭和8年ラジオ放送をレコードで発掘!音源公開!、NHK番組発掘プロジェクト通信、2019年8月2日、同年9月19日